その日の夕方。
 葵音の仕事が落ち着いた時間に、2人は出掛けていた。
 黒葉の荷物をホテルから運び出すついでに、彼女の布団や生活雑貨などを買い込んでいた。
 昨夜、ベットに戻ってこなかった葵音を、黒葉は怒り、「雇い主がベットで寝るべきです!」と言い張ったのだ。さすがにソファに寝させ続けるわけにもいかないので、布団だけでも早く買おうと思ったのだ。その他は、ついでというか言い訳だった。


 「あの……そんなにいろいろ買い込まなくても。私が少しずつ揃えていくので………。」
 「布団とかパジャマとか、生活雑貨は買っておかないとだめだろ。女は準備するもの多いだろうしな。」
 「そう、ですけど……。」
 「俺からの就職祝いだと思えばいいさ。」
 「………。」


 黒葉は、何か考え込んだ後に小さくコクッと頷いた。
 彼女が納得していないのを感じながらも、その時は気づかない振りをした。



 引っ越し祝いのように、自宅でそばを食べている時だった。
 黒葉は箸を置いて「葵音さん。」と、真剣な表情で葵音を見つめながら、名前を呼んだ。


 「どうして、こんなに良くしてくれんですか?」
 「………どうしたんだ、急に。」
 「急じゃないです!ただの住み込みの私にここまでする必要はないと思います。お給料だってあんなに高いし、それにタダでジュエリーのつくり方を教えくれるなんて……。」
 「おかしい、か?」
 「……はい。」


 黒葉は、複雑な表情のまま葵音を見つめていた。彼女が不安がるのも仕方がない事だろう。

 昨日までは、話をすることさえ拒否していたのに、掌を返したように優しくなったのだ。
 葵音の気持ちの変化がどうしてなのか、わからないのだろう。


 「確かにおかしいかもしれないな。」
 「え?」
 「俺もよくわらないんだ。ずっと一人で暮らしてきたから、寂しいのかもしれないな。おまえと居て嫌な気持ちにはならなかったし、心地がよかったから………おまえに傍にいて欲しいと思った。だから、夜中に探しに走ったんだろうな。」
 「………葵音さん。」


 こんな恥ずかしいことを言うつもりではなかった。
 けれど、彼女といると不思議とそんな言葉が口から溢れてしまうのだ。
 

 黒葉は嬉しそうに微笑みながら、「私も傍にいたいです。」と、微笑んだ。

 第三者からみたら、恋人同士に見える会話かもしれない。
 けれど、葵音と黒葉はただの雇い主とジュエリー作家見習いの家政婦という関係だっだ。

 
 この奇妙な関係と距離感が何とも複雑だけれど、葵音は新鮮さを感じていた。


 きっと近づくのは簡単なことなのだろう。
 

 けれど、今は恋愛の駆け引きややり取りがとても楽しく、葵音はその関係をゆっくりと育てていきたいと思った。

 大切に温めて、自分の気持ちに向き合いたい。
 そう思いながら、葵音は彼女が作った蕎麦を啜った。