仕事があるから少し残るね、というとレイはわかりましたと言って、その後ろ姿に引き止めて欲しそうな匂いをさせて、出て行った。

彼女が出て行ってから一人、今日までにやらなければいけない仕事を終わらせて、彼方は準備室を出た。時刻は午後6時を回っており、もう随分と辺りも暗くなりだしていた。

久しぶりに歩いて帰ろうとすると、垂水、と呼び止められた。振り返ると部活終わりの佐藤。

「どうかした?」

にっこりと笑っているのに、彼方の浮かべる笑みは佐藤が声をかけたことをあまり歓迎しているようには見えなかった。

彼方の頭の中には早く帰ってレイに連絡したい、そのことしかなくて、僅かな時間すら惜しかった。

「ちょっと、いいか」

佐藤が言いながら背を向けて歩き出したので、仕方なく彼方もあとを歩く。この相手がレイだったならむしろ喜んでついていったのだが。

どうせろくなことにならないだろうと予想はしていたが、もう誰もいない校舎の3階、一番奥の教室に入った瞬間、佐藤は「東と付き合ってるんだろ?」とその苛立ちを隠すこともせずにこっちを睨んできた。

「……ちょっと、何を言ってるか分からないんだけど」

あくまで優しい先生のままでいよう。そう思うのに、佐藤は止まらない。

「さっき見たんだ、お前がいつもいる準備室に東が入っていくのを。そうじゃなくてもお前はいつもあいつのそばにいるのに、これが怪しくなかったらなんだって言うんだよ」

しらばっくれるのも大概にしろ、と言いたげな佐藤を彼方はまあまあ、となだめる。

「東さんには勉強を教えてって言われたから教えてただけだよ。そんなに不安なら本人に聞いてみたらいいんじゃないかな?」

「そんなの口裏合わせてたらわかんねえだろ」

「なら、佐藤は "だーいすきな東さん" の言ってることを信じないの?」

だーいすきな東さん、と嫌味っぽくいうと、佐藤がキッと睨んできた。

「俺が聞いてるのは付き合ってるか付き合ってないか、それだけだ」

「そんなの、僕じゃなくて本人に聞いたらいいのに。それとも聞く勇気もないのかな。振られちゃったから」

彼方が何か言うたびに、佐藤は怒りと図星をつかれたことで何も言えなくなる。それが彼方にとって何よりものストレスで、何もかもめんどくさくなるが、まだ我慢する。

「話はそれだけ? 帰っていいかな」

「……付き合って、ないんだよな?」

「__佐藤はどっちなら嬉しい?」

刹那。空気が変わった気がした。

まるで彼方の中にもう一人いるかのように、顔つきから声まであっという間に変わって、佐藤は一瞬驚いたように目を見開く。

「付き合ってない方が……いいに決まってるだろ」

そうだよね、と相槌を打ってきた彼方の声は、いつも通りで。先程のゾッとするほどに冷たく低い声は聞き間違いかとすら思ってしまう。

それがかえって、恐ろしい。

くるりと白衣を翻した彼方は、教室を出る直前、ふと思い出したように振り向く。

「ねえ佐藤、僕はほしいものができたらどんな手を使っても手に入れたいタイプなんだけど」

「……まさか」

「早くしないと手に入っちゃうかもね」

彼方のその一言が、何よりの証拠だった。