重い足取り、という言葉がある。今の私がまさにそれだ。

準備室まで歩いて五分。ゆっくり行ってそれなのだから、考え事をしてるとあっという間だ。

朝、何気なく回せたドアノブが、今はとてもじゃないが、回せない。この扉の奥におそらくいるであろう先生と話すのが、怖い。

数分躊躇って、深呼吸をして__ドアノブを、回す。

「失礼します」

先生は、デスクに座ったまま動こうとしない。そのうちに扉が閉まって、密室になる。

息が、苦しい。

しばらく扉の前から動かずにいると、先生は読んでいた本を閉じて立ち上がった。ちらりと見えた栞は、かすみ草の押し花だった。

あれ、私、あの栞知ってる__

一体どこで見たのか、思い出すよりも先に先生が声をかける。

「なんで呼んだか、分かる?」

諭すような口調だった。でも、数日とはいえ、この学校の誰よりも先生と接している私には分かる。

先生は、間違い無く、怒っている。それも、とても静かに。

「わからない、って言いたいところですけど……はい」

「そ。じゃあ、思い当たる節を言ってみて?」

先生はいつかの日と同じように、私の逃げ道を塞ぐようにして立った。距離が近い。先生の長い睫毛まで、はっきりと見える。

「佐藤に、手を、握られてた、こと……」

私が途切れ途切れにそういうと、先生は無表情で、

「あとは?」

と、問い返した。

「え、あと……? えっと……」

あと、先生が__彼氏が、見たら不機嫌になること。

「その手を、振りほどけなかったこと……?」

「うん、理解してるならいいんだけど」

いい、という割には、やはり先生は不機嫌そうだ。

でも、私だって頑張って振り解こうとはしたのだ。もっというなら、佐藤は先生と話し終わったあと、思い出したように手を離した。

「……いくつか、聞いていい?」

拒否権なんて大それたものはない。なにせ、この事態を引き起こしたのは紛れもなく私で__だから、私には説明する義務と責任がある。

私が先生をまっすぐ見ると、先生は準備室に入ってから初めて、優しく顔を緩ませた。ふわっとした、柔らかい笑みだ。

だがそれも一瞬のことで、すぐに先程同様に、不機嫌そうな、無表情じみた顔になる。

「まず、理由を聞かせてもらえる?」

「それは、走ったときに掴まれたんですけど……」

「なんでそんなことになったのかな」

「佐藤って、ほら、人気者ですから……なんていうか、一緒に歩いてると、視線が痛くて。そしたら、あっちから行こうって言われて手を掴まれて、そのまま走って、それで……」

ふうん、と、聞いてきた割には興味なさそうに先生は相槌を打つ。

「あ、あの、でも、ほんとにやましい事は何もないですから」

慌てて言ってから思った。これではまるで、先生に嫌われるのが耐えられないみたいではないか。

つい一週間前まで、嫌われてもいいとすら思っていた人なのに。

先生もそれに気づいたのか、微かに瞳孔が開く。そして、すっと目を細めて、囁く。

「君と佐藤は、どういう関係なの」

「私と佐藤、ですか? ただの、クラスメイトですけど__」

「レイは、佐藤がただのクラスメイトの手を、いつまでも握ってたって本気で信じるの?」

何がいいたいかわからなくて黙ると、先生は露骨にため息を漏らす。

「……僕は、奪われる心配もしないといけないわけね」

「奪われる心配……?」

私を? 佐藤に? __ありえない。

「レイの鈍感さには、少なからず佐藤に同情を覚えそうだ」

苦笑をこぼすと、先生は私の髪に指を通す。私が唯一手入れに手間と時間を惜しまない場所だ。指は、引っかかることなくするりと黒のカーテンを滑り落ちていく。

「ええっと……」

「まあ、こういうのは僕の口から言う事じゃないから」

髪を束ごと掴まれて、背中に流された。その指で、ブラウス越しに鎖骨をなぞられる。

「ここ……結局、どうしたの」

先生の指は、昨日刻まれた印のところで、止まっている。

「絆創膏、貼りました」

「そのままには、してくれなかったの」

「だって……聞かれたら誤魔化せる自信ないですし……」

だけど、その結果意識がここに向かってしまったのは、言うまでもない。

授業中、休み時間、片時だって先生を忘れられなかった。

今、本人を見ると余計に意識してしまう。心臓が必要以上に働いて、まともな思考は奪われる。

熱が、ゆるりと回って冷めないのだ。

先生はしばらく私を見つめて、ふっと笑った。

「レイが少しは僕のことを考えてくれてるってことがわかっただけ、マシかな」

頭を軽く撫でると、先生は私の手を掴んで、重ねた。

「……先生?」

そう呼ぶと、先生は不機嫌そうな顔を見せた。

「二人きりの時は、彼方さんがいい。これから先ずっと」

ねだるように、まっすぐと。先生は甘えたように囁く。

それに直接は答えずに、私は先生の手を握る。

男の人にしては、繊細で細長い指。綺麗に整えられた爪から、先生の性格が見える。

「……もうすぐ、秋祭りがあるの、知ってますか?」

先生は頷く。

「その日が、ちょうど一ヶ月後なんです。……先生への答えを、そこまでに出しますから。もう少しだけ、待っててもらえますか」

嫌いじゃないと言ったのは、嘘じゃない。好きなのかはまだわからないけれど、私の先生への気持ちは、確かに変化している。

つまるところ、私は恋愛経験が少ないゆえに、単純で扱いやすいのかもしれない。

「じゃあ、その日まで我慢しておく。……楽しみだなあ」

先生は嬉しそうに笑うと、私に寄りかかる。吐いた息が耳元にかかって、くすぐったい。身じろぎをすると、先生は、今度はわざと息を吐いた。

「……っ、やめてください」

「やっぱり耳弱いよね? いいこと知ったなあ」

迫られた時にちゃんと拒みきれたら、先生は諦めてくれたのだろうか。もしそうなら、私はきっと、こんな悩みを抱えることもなかったのだろう。

「あの、用が済んだなら帰ります」

クーラーで少し冷えた腕を軽くさする。思っていたよりも長居してしまった。

「……もう帰るの?」

切なげな瞳は、置いていかれそうになる子供のようだ。

「勉強しないと、いけないので。それにいくら夏でも、少し寒くて」

言い切った時には、先生の腕の中だった。白衣から香る煙草の匂いが、無性に懐かしい。

かすみ草の栞と、煙草。初対面だと言ったら先生が驚いたこと。

__やっぱり、どこかで会ってる。

先日の疑問が、確信に変わった。

「嫌だ。帰らないでよ」

「わがまま……言わないでください……」

「もう少しだけ、そばにいて欲しい」

断るべきだと、理性は叫ぶ。

でも、仮初めだとしても、この人は彼氏だから。今だけは、私のものだから。

そんな言い訳をして、先生の背中に初めて腕を回した。

先生は、ただ無言で、抱く力を強める。

「……好きだよ、レイ」

そう言う先生の背中は、儚い印象とは裏腹に逞しかった。