あたしは咄嗟に階段から見えにくい、壁から少し出っ張った柱の影に体を隠した。
パタパタと走っているような速度で足音は遠ざかっていき、あたしを見付けることなく階段を下りていったようだった。
完全に足音が消えるまで待って、安堵しながらあたしは影から出た。
「何だったんだろ……?」
誰も聞くはずのない独り言は、空気に溶ける前に誰かに拾われた。
「ちょっと色々あったんですよ」
階段から降ってきた声に顔を上げると、仄暗い階段の一番上に人影があった。
「え……木崎くん? 何でこんなトコ……」
「野暮用があったので。もしかして、彼女との話、聞いていました?」
すらりと均整のとれた四肢が滑らかに動き出して、音もたてずに階段を下りてくる。
「ううん……何言ってるかまでは聞こえなかったから」
「ならよかった。今見たことは忘れてください」
目前に立った木崎くんは背が高くて、あたしが顔を斜めに上げないと表情が窺えない。
見上げた顔の上で、薄めの唇の両端が少し上がっていた。
笑顔にもとれるその顔は、笑っているようで笑っていない。
初めて間近に見る瞳は、冷え冷えとした黒褐色。
少しも笑っていない瞳の奥底で、何故だか木崎くんが傷付いている気がした。


