私は、臨書のお手本をだして書き写し始めた。1文字1文字、自分の文字ではないものを無心で追っていくにつれて、気持ちは静かになって行った。

 3枚目を書いている時、カチャリとドアの音が聞こえたのに気がついたけれど、あと4文字だったので、そのまま書き続けた。

 書き終えて、筆を置く。自然と視界に入る右隣の机の下に、長い脚が見えた。

「とわ」

 優しく呼んでくれるのは、前に私がびっくりして筆を落としたからかもしれない。

「よかった、居て」

 ……そんなこと、そんなに優しい眼差しと声で言わないで欲しい。

「片付け……するね」

 私が棚に道具を片付けていると、すぐ後ろから声がした。

「誰? とわに変なこと言ったの」

「…………」

 東海林先輩の名前を出すのを躊躇ったのは、告げ口みたいで嫌だったのと、あの剣幕でまたこられるのが嫌だったのと、あの人と桜庭くんがどういう関係なのか知りたくなかったのと……色々だ。

「俺は、とわに嘘ついていないよ。 今、彼女は居ない」

 すぐ耳元で、桜庭くんの低い声がする。気づけば、桜庭くんは棚に手をついていて、私は棚と桜庭くんの身体と両腕で閉じ込められていた。

「言ったよね、忘れさせてあげるって。だから、とわは俺だけ見てたらいいんだよ」

 低く耳元で囁かれて、肌が粟立つような感覚を覚える。

 それは、5年も続けた上に、叶わずに終わった片想いの片付け方が判らない私にとっては、甘い甘い誘惑だった。