唱えた瞬間。二人の間に流れていた空気が変わる。夏だというのに肌をさすような冷たい風が吹いて、顔をあげれば剣淵の表情は失われていた。瞳に不自然に輝き、それは散々佳乃も学んできた呪いの発動を報せるものだった。

 ゆらりと影が迫り、浅はかな願いを抱いてしまった佳乃を責める唇が重なった。

 きっといつもの剣淵だったのなら、佳乃の腰を支える手に力が込められていただろう。それこそ手加減なんか知らなくて、痛みすら感じるぐらいに。それがなく、ただ触れているだけの優しい指先がもどかしい。

 これは剣淵ではない。呪いの発動によるキスなだけ。わかっているのに、距離の近さに鼓動が急いていく。重ねた唇から伝わる温度は火傷しそうなほどに熱く、触れているだけなのに体の芯まで溶かしていくようだった。

 呪いを発動させてしまった佳乃が悪いのであって、剣淵は被害者だ。しかし四回目の口づけとなったからか罪悪感は薄れ、佳乃の心中にあったのは妙な高揚感だった。数秒ほど触れて離れていくことは予想がついているのだが、そのわずかな間を忘れてしまうのが怖くて、息をひそめて伝わってくる感触に思考を寄せてしまう。柔らかく形を変えた唇も、伏せ気味な瞳やまつげも、すべてが記憶に焼き付いていく。

 それが、剣淵奏斗と三笠佳乃の四回目のキスだった。


 唇が重なってしまえば呪いは終わる。その予想通り、剣淵の瞳に光が戻ったのは唇が離れた後だった。

「い、いま……俺、は」

 腰に回していた手もくっついていた体も離れ、剣淵は数歩ほど後ずさる。それから佳乃をじいと見つめ、深くため息をついた。

「また……キスを、していたのか」

 無意識のうちに佳乃にキスをしていた剣淵自身に呆れるような声だった。

「ご、ごめん……」
「なんでお前が謝るんだよ」
「え、っと……その……」

 口ごもる佳乃を無視して、剣淵は背を向ける。そしてその場に膝をついてしゃがみこむと言った。

「乗れ」
「え? 乗れって、どういう……」
「あの落ち方、足くじいてんだろ? いいからさっさと背中に乗れ」
「いやいやいやいや! 私重たいから、剣淵を潰しちゃうかもしれないし――」
「うるせー! 黙って乗れ!」

 何もそこまで怒らなくても、というほど怒声が響く。これに逆らっても剣淵の機嫌を悪化させるだけだ。それに右足の痛みを考えれば、背負ってもらえるのは大変ありがたい。佳乃が歩けば、山を下りるのは日が沈む頃になっていただろう。

 意を決して、剣淵の背に身を預ける。両足が地を離れてふわりと浮いた瞬間、己の体重を思いだして逃げだしたくなったが、剣淵はぐらつくことなくあっさりと立ち上がった。

「帰るぞ。掴まってろ」

 躊躇いながらも剣淵の肩を掴む。触れると普段見ているよりもがっしりしていて、いつだったか服を借りたがこれは佳乃が着ても幅や丈が余るわけだ。女性と男性の体つきの差というよりも、剣淵が普段から運動を好んでいることが現れているようだった。