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 思いを伝えることはできなかったが、こうして伊達と話すことができた。デートの気まずさもなく、普段通りに会話ができていたと思う。そのことにほっとし、伊達が去ってしばらくしてから、佳乃も階段をおりていく。

 剣淵や浮島はもう帰っているだろう。菜乃花への連絡は明日するとして、今日はもう帰ろう。階段をおりて、廊下に出ようとしたところで伊達ではない声が佳乃の鼓膜を揺らした。

「聞いちゃった」

 弾む声と共に階段の影から男が顔を出す。それはここにいると予想だにしていなかった人物、浮島紫音だった。

 なぜ彼がここにいるのかという疑問はなかった。何度も接しているために浮島がとりそうな行動はある程度想像がつく。面白いことが起こると嗅ぎつけて空き教室を出て行った佳乃を追いかけてきたのだろう。その嗅覚が優秀すぎることに佳乃はがっくりと肩を落とす。
 問題は浮島がどこまで話を聞いてしまったかである。ニタニタと怪しげな笑みを浮かべながら浮島が佳乃に歩み寄る。

「ねえ、憧れの伊達くんとキスをしたんでしょ? 二人は付き合ってるの?」
「ばっちり盗み聞きしていたんですね……付き合ってないです、けど」

 答えているつもりが、日曜日のキスをまざまざと思いだしてしまって、佳乃の顔が赤くなっていく。血気集いそうな頬を抑えようと唇を噛みしめて視線を逸らす。その姿は浮島にとって面白くないものだった。恥じらう女子の姿は可愛らしいものだが、どういうわけか浮島の表情は硬い。普段ならにやついている口端が垂れさがって不満を表していた。

「面白くない」

 数秒も経たずにそれは爆発する。

「そんな呪いを持っている癖に恥ずかしがるなんて、純情なふり? オレが知っているだけで四回目、しかも付き合ってもいない二人の男と。純情どころか真っ黒じゃん、唇の大安売り」
「……っ! そんな言い方!」
「ああ、佳乃ちゃんを嫌いなわけじゃないから。オレ、ビッチな女の子大好き。だから腹決めて、呪いを悪用して色んな男をひっかければいいじゃん」

 じり、と靴音を間近に感じるまで、思考は浮島に奪われていた。浮島は何かに怒っているようだとはわかるのだが、その原因がほんのわずかな恥じらいの表情なのだと、佳乃はまだ気づかなかったのだ。そうして、手を伸ばせば届きそうなほど近くに浮島を許していた。

「軽く踏み込んで遊ぶなとか、人を傷つけるなとか、オレにお説教してきた子と思えないよね。佳乃ちゃんの方が、もっとずるいことしてるじゃん」

 浮島の言う通りかもしれない、と佳乃は反論を飲みこんだ。呪いがあるとはいえ、剣淵や伊達とキスをしている。特に剣淵には呪いのことも黙っているのだ。キスだけではないデートだってそうだ。剣淵の元へ行くからと伊達を傷つけた。
 ずるいことを、しているのかもしれない。ずきり、と頭が痛む。

「本気になれ、なんて言っておきながら佳乃ちゃんだって変わらない。剣淵くんと伊達くんとキスできてうれしかった? でもすぐに飽きて、他の男とキスをするよ。どんなに好きな人だろうがコロッと気持ちが変わって捨てていくんだ。女なんてそういう生き物なんだから」

 佳乃に向けられたまなざしは階段踊り場の空気よりも冷えていて、夕暮れよりも濃い赤色を秘め、血液に似ているのだ。古傷が開いてそこからしたたり落ちる血の音。

 佳乃は顔をあげて浮島を見る。珍しく無表情で真意は読み取れないが、浮島が傷ついているような気がした。

「女なんてそういう生き物なんて……ひどすぎる」
「ひどいのは佳乃ちゃんだよ。好きな人がいるなんてピュアな女子高生のふりをしておきながら、呪いを言い訳にして付き合ってもいない男たちとキスをしているんだもん。オレはそういう子好きだから大歓迎だけど、ちょっと寂しくなっちゃうよねぇ」
「寂しい? どうして?」
「だってオレだけ仲間外れじゃん――ねえ、オレには嘘をついてくれないの? 呪いを言い訳にしていいから、オレともキスしてよ」

 その言葉を聞いた瞬間、ぞわりと背筋が粟立った。

 浮島は誤解している。伊達とのキスは呪いにかかわるものではない。佳乃は嘘をついていないのに、伊達からキスをしてきたのだ。だが浮島はそれが佳乃の呪いによるものだと思っているのだろう。

 そもそも浮島が語るように、佳乃は喜んでキスをしているわけではない。剣淵との接触は呪いによるものであるし、憧れていた伊達とのキスは剣淵との喧嘩騒動があったために素直に喜ぶことができず複雑な思いを抱えている。挙句に浮島までとなれば――簡単に捕まえられてしまいそうな距離から逃げようと、佳乃は無意識のうちに後ずさりをしていた。

 わずかに開いた二人の間で、浮島の瞳が揺れた。鋭く責め立てていた声音は一転して沈んだものになり、悲しみを宿した顔を伏せる。

「女の子は好きだよ、すごく好き。あたたかくて、やさしくて、柔らかい。近くにいるだけで幸せになれるいい匂いがする」
「浮島……先輩?」
「でもどうせみんなすぐに飽きて捨てていく……違うね、女の子だけじゃない。人間は誰だってそうだ。どれだけ信頼を築いていたとしても興味を失えばおしまいだ」

 凪いだ水面、のようだと思った。あれほど荒れ狂っていたものが急に姿を変えて、いまは穏やかさを取り戻している。

「……浮島先輩はそれが理由で、本気で人と向き合うことをしないんですか?」

 その言葉が大波を生んだのだと気づいたのは、顔をあげた浮島と目が合った時だった。細い瞳はめいっぱいに見開かれ、無機質に佳乃を見つめている。

「佳乃ちゃんにはオレがそう見えてるの?」
「色んな女の人と付き合っても本気になるのがこわくて……だから浮島先輩から突き放している」

 もう逃げられないと思った。目をそらさず、佳乃も浮島を見つめ返す。

「さっき先輩が言ったことは……私を試している。浮島先輩に嘘をついてキスをしたら、先輩が言っていた通りの純情じゃない、飽きたら捨てる意地悪な私だと証明してしまう。それを先輩は確かめようとしてる、きっと」

 浮島は答えない。唇を真一文字に結んで、獲物を狙う蛇のように正面から佳乃を睨みつけていた。