放課後の階段踊り場は薄暗い。封鎖された屋上に繋がる扉の隙間と、その小窓から差しこむ光だけだが、東向きなこともあってひんやりとした空気が流れていた。

「三笠さん、よかった。きてくれたんだね」

 階段を駆けのぼると、ふんわりと微笑む伊達と目が合った。優しく目を細めて、表情を緩めている。彼の持つ穏やかな雰囲気が佳乃は好きだった。

「遅くなってごめんね」
「大丈夫だよ。急に呼びだした僕が悪いから」
「それで……話って?」

 佳乃が聞くと、伊達は悲しげに顔を伏せた。

「三笠さんが、嫌がらせを受けているって聞いたんだ。たぶん、僕たちが日曜日に会っていたのを誰かに見られてしまったんだと思う。三笠さんに迷惑をかけてしまったから謝りたくて……」

 日中の、手紙や黒板の落書きを思いだす。あれを伊達にも知られていたのかと思うと情けない気持ちになる。特に黒板の落書きは、見られたくないものだった。

 大丈夫だよ、と強がろうとして首を横にふる。これでは呪いが発動してしまう。素直にならなければ。

「ショックは受けてる。一人だったら落ち込んでいたかもしれない……けど、菜乃花や剣淵がいるから、なんとか平気だよ」

 佳乃が答えると、伊達は安堵の息をはいた。

「北郷さんや剣淵くんが三笠さんを守ってくれているんだね……少し、うらやましいな。僕は違うクラスだから、何かあってもすぐに駆けつけることができない。北郷さんや剣淵くんがうらやましいよ」

 その言葉に胸がどきりと跳ねる。夢でもみているのかと頬をつねって確かめたくなるほど、嬉しい言葉だった。もしや伊達と両想いかもしれない、なんて淡い期待が浮かんだ。

「伊達くんの方は嫌がらせされてない?」
「僕は大丈夫だよ。誰かに言われることも、変なことをされることもない」

 佳乃だけでなく伊達にまで被害がでていたらと不安だったのだ。佳乃は「よかった、安心したよ」と言って、胸をなでおろした。

 だが伊達は、まだ不安そうに佳乃を見つめている。そのまなざしに憂いの色が滲んでいた。

「でもやっぱり心配だな。明日はもっとひどい嫌がらせになるかもしれない。犯人がわかれば僕から言うこともできるんだけど……」
「そこまでしてもらわなくて大丈夫! もうすぐ夏休みがくるから、嫌がらせもいまだけだよ」

 明日はどんな嫌がらせをされるだろうかと不安はあるのだが、そこまで気持ちは沈んでいない。もしひどいことをされたとしてもなんとかなる。そう信じていられるのは、菜乃花や剣淵といった理解者の存在が大きい。

 強く前を見据えた佳乃に、伊達の不安は晴れたのだろう。険しかった表情は緩み、どこかに潜んでいた穏やかな空気が戻ってくる。

「なにかあったら相談してね。悲しいこととか困ったことがあったら隠さないで教えて」
「うん。相談する」

 伊達が階段をおりる。そして佳乃に数歩近づくと、照れくさそうにしながら可愛らしく首を傾げた。

「こんなことになって心配だったけど、本当は三笠さんに会いたかったんだ」

 その仕草が、言葉が、佳乃の羞恥心を煽る。目を合わせているのが恥ずかしくなって、佳乃は赤くなった顔を隠すように俯いた。

「三笠さんにキスをしてしまったから、嫌われていたらどうしようって怖かったんだ」
「嫌うなんて、そんなこと……」
「こうして二人で話すことができて、ほっとしてる。三笠さんの力になりたいから、辛いことがあったら僕に相談して」

 心臓が早鐘を打ち、呼吸すら疎ましくなるほど思考が鈍い。ここは階段なのに、じっとりと海の中に沈んで溺れていくような感覚。

 いまなら、伊達に告白できるのではないかと思った。両想いかもしれないという淡い期待がいよいよ大きくなって、喉元まで這いあがる。

「だ、伊達くん!」

 好きだ、と言ってしまえばこの苦しさから解放されると思ったのだ。顔をあげ、じっと伊達を見つめる。あとはその一言を絞り出す、ほんのすこしの勇気だけ。

「じゃあ、僕は帰るね」
「あ……」

 気持ちを伝えようと意を決した佳乃に気づかず、伊達が背を向ける。そしてとんとん、と軽快な靴音を響かせながら階段をおりていった。

 数秒あれば。わずかな時間があれば、佳乃は伊達に思いを伝えていただろう。去っていく背は佳乃を置いてけぼりにするようで、告白をする隙はなかった。