風向きが変わったのかもしれない、と佳乃が気づいたのは登校後のことだった。教室に入ると女子たちがひそひそと話しながら佳乃を見ている。他クラスから佳乃の姿を見にやってくる女子生徒もいた。

 佳乃は、危険な空気が魅力だと言われている浮島や、体育祭で活躍して注目を集めた剣淵と接することが多い。さらに女子たちに大人気の王子様である伊達がお姫様抱っこをして退場したのだから、注目を集めてしまうのは仕方のないことだった。だがそれにしては、今回は少し違っている気がする。


 居心地の悪さに首を傾げながら席につく。かばんに入れていた教科書を机の中に移そうとしたところで――佳乃は気づいた。机の中に入っているノートの切れ端。そこには赤いペンで、佳乃に対する恨みがかかれている。

「……な、なにこれ」

 差出人の名はない。書いてあるのは、佳乃の名前と罵言だけだ。得体のしれないその手紙が恐ろしく、手が震える。まさか、これは、嫌がらせだろうか。


 不幸はそれだけで終わらなかった。その日は家庭科室での実習授業があったのだが、教室に戻ってくると、黒板にでかでかと『三笠佳乃はビッチ』と書かれていた。
 気にしないように、と思ってはいるものの、その文字にざわつく教室やどこかから聞こえてくる笑い声に悲しみがこみあげてくる。

 皆の注目と笑い声を背に浴びながら、佳乃は黒板に書かれた文字を消す。黒板消しが震えてうまく消せずにいると、菜乃花が隣に立った。

「佳乃ちゃん、手伝うよ」

 黒板消しを手に取り、菜乃花も文字を消す。佳乃のことを案じているのだろう、その声は沈んでいた。

「誰がこんなことしたんだろう」
「わからないけど……でも、佳乃ちゃんのことうわさになっているみたい」
「うわさ?」

 周りに聞こえぬよう、小さな声で菜乃花が言う。

「日曜日。伊達くんと佳乃ちゃんが手を繋いで出かけているところをみた人がいるらしいの。だから二人は付き合っているんじゃないか……って」
「わ、私と伊達くんが!?」
「二人は体育祭でも話題になったでしょ? だから……もしかすると、」

 それ以上菜乃花は言わなかったが、予想はつく。佳乃と同じく伊達に片思いをしている女子生徒が妬んでいるのだろう。伊達と佳乃は付き合っていないのだが、そう勘違いされてもおかしくない状況を見られてしまった。

「少しの我慢だよ。夏休みが終われば、こんなくだらないことみんな忘れちゃうから」
「う、うん……私はいいけど、伊達くんは大丈夫かな」

 これだけ佳乃への風当たりが強いのだから、伊達にも影響があるだろう。黒板の隅にかかれた意地悪いタヌキのイラストを消しながら、伊達のことを考える。
 もし、佳乃と同じようにいたずらをされているとしたら。伊達は日曜日のデートを後悔するのではないだろうか。三笠佳乃と一緒にいたからこうなってしまった、そんな風に思われたら、悲しくなる。

 黒板の落書きを消す作業は続き、残すは上部だけとなっていた。上部のふちまでめいっぱいに落書きされている。これを書いた人はわざわざ椅子にのぼって書いたのだろうか。そんな無駄な労力をしてまで落書きをする必要があるのかと呆れてながら、背伸びをして手を伸ばす。黒板消しを長く持てばぎりぎり届くかもしれない。

「あとちょっと……なんだけど!」

 ぷるぷると足を震わせながら身を伸ばしていると、大きな影が佳乃の体に落ちた。そして佳乃の手からするりと黒板消しを奪う。はっとして見上げれば、それは剣淵奏斗だった。

「どけ。俺がやる」

 剣淵は黒板上部の落書きを消していく。佳乃よりも背の高い剣淵は、背伸びすることなく簡単に消していった。

 そして「負けんじゃねーぞ」と、黒板から降ってくるチョークの粉みたいに小さな声で呟く。この状況に心細くなっていた佳乃にとって、その励ましはあたたかく、体に染みこんでいく。

 ありがとう、とお礼を伝えようと剣淵の方を見た時。教室の後ろから、ひそひそと話し声が聞こえた。

「うわ。伊達くんと付き合ってるのに今度は剣淵くんだって。サイテー」
「三笠さん、こないだ浮島先輩に呼び出されてたよね。モテまくりじゃん」

 よく知っているクラスメイトなだけに、誰がしゃべっているのかおおよそ検討がついてしまう。わかってしまうからこそ、こんな風に言われてしまうことが悲しくてたまらない。
 眦《まなじり》に涙が浮かびそうになる。泣いたところでこの状況が変わるわけではないとわかっている。それでも、悔しくて、辛くて――

「三笠」

 こんな顔を見せたくないと俯いた佳乃に、剣淵の声が言葉がふりかかる。

「俺も、北郷もついてる。めんどくせーところもあるけど浮島さんもいる。だから耐えろ」

 そう、一人ではないのだ。菜乃花もいるし、無愛想だけど剣淵も、問題児の浮島だっているのだから。心で唱えて、佳乃は前を向く。
 佳乃を悪く言っているからと、黒板に落書きした犯人や机に手紙を入れた犯人が彼女たちと決まったわけではない。犯人を探したいが、それよりも伊達のことが心配だった。