佳乃でさえ記憶があやふやになっているぐらいだ。伊達が佳乃のことを覚えているかはわからない。
 伊達が夏のことを覚えていたとしたら佳乃は喜ぶだろう。もし伊達が覚えていなかったとしても、それでも構わない。佳乃が覚えているのだから、それでいいのだ。
 うっとりとしながら語る佳乃に、剣淵は顔をあげた。

「じゃあ俺なんか放っておいて、伊達と遊んでくりゃよかっただろ」
「それはできないよ!」
「殴られたヤツを置いて、殴ったヤツのとこにくるなんておかしな話だろ。まだ間に合う、伊達に連絡して戻れよ」

 そう言いながらも、剣淵の顔は険しく、精彩を感じない。強面の外見はいつもと変わらないのに、この時ばかりは触れてしまえば崩れてしまうもろいガラスに似ていると思ったのだ。

 佳乃は首を横に振る。もし間に合うとしても伊達に連絡をする気はなかった。いまは剣淵の方が心配で、気になってしまうから。

「確かに剣淵は伊達くんを殴ったのかもしれないけど。でも私には……剣淵の方が傷ついているように見えたの」
「……俺が?」
「うん。あんたは乱暴なやつだし、人のことは無視するし、制服を崩して着ているし、嫌なこともたくさんあったけど、」

 言いだせばきりがないほど剣淵に関する思い出が頭を巡る。それらの思い出を繋ぎ合わせて答えに導いていく。深く息を吸い込んだ後、噛みしめるようにその答えを口にした。

「剣淵は、理由もなく人を殴る人じゃないと思う」

 相当な理由があったから、剣淵は伊達を殴ったのではないだろうか。例え乱暴なやつだと言っても、椅子を蹴ったり机に足をのせたり、佳乃を壁に追いつめる程度で手を出したことはなかった。

 それに合宿で話した時、確かめたいものがあると語っていた剣淵はまっすぐ前を見つめていた。自分を信じて、貫いていく強さ。それを持っている人が簡単に殴ったりするだろうか。

「勝手なことばかり言ってごめんね。でも、私は剣淵のことも信じているから」
「お前……」
「乱暴な人にみえるけど実は面倒見がよくて、何度も助けてくれた。なんだかんだいいヤツなのかもって、思っているんだ」

 剣淵は目を丸くして、石のように固まっていた。表情のわずかな変化も感じられない。それが気まずくて、佳乃は次々と思い浮かぶままにしゃべり続ける。

「ほ、ほら! 剣淵と話してる時って、友達感覚っていうか……気が抜ける、って感じ? 伊達くんと一緒の時は緊張しちゃうけど剣淵の時は楽なの。だからいい友達に――」

 いい友達になれると思っている。そう紡ごうとした言葉はインターホンの音によってかき消された。


 瞬間、弾かれるような速さで剣淵が立ち上がる。

「三笠!」

 反応できず呆気にとられている佳乃の手を引いて無理やり立ち上がらせると、クローゼットの扉を開けた。
 そこはウォークインクローゼットとなっていて、上着やシャツがかかっている。その服をかきわけてスペースを作ると、中に佳乃を押し込んだ。

「は!? えっ、な、なんで――」
「ここに隠れてろ。俺がいいと言うまで出てくんじゃねーぞ」

 服といっても枚数は少ないのだが、人間が隠れるほどのスペースとしては物足りなく、居心地が悪い。奥行きがあるため、かろうじて座ることはできそうだ。
 戸惑っている間に、クローゼット内に暗闇が満ちていく。剣淵が扉を閉めようとしていた。

「ま、待って――!」

 佳乃の言葉を遮るように、ぱたり、と扉が完全に閉まる。

 周囲は暗く、ルーバータイプの扉のために隙間から差し込む室内の明かりだけが頼りだ。その隙間を凝視していると、剣淵の姿が見える。
 こんな居心地の悪い狭い場所に閉じ込められるなんて。理由がわからず、このまま扉を開いて問いただそうしたが、既に剣淵は玄関へ向かったようだった。玄関扉を開く音が聞こえて、それから――

「連絡してから来いって、何度言えばわかるんだよ……」

 剣淵が誰かと話している。隠れる理由はこれだったのかと納得した佳乃だったが、次に聞こえてきたのは剣淵の声ではなかった。

「うるさいわねー、好きな時に会いにきちゃダメなの? 可愛いカナトちゃん」

 それは暗いクローゼットに突き刺さりそうなほど甲高い。知らない女性の声だった。