「……小さい頃、伊達くんに助けてもらったことがあるの」

 菜乃花と蘭香にしか話したことのない、夏の記憶。伊達とはじめて出会った大切な思い出と同時に、それは佳乃の人生を狂わせた日でもある。

「結構、うろ覚えなところも多いんだけど……私が小学一年生の時にね、弟が生まれることになったの」

 それは十一年前の夏休みだった。
 弟を身ごもり臨月に入ろうかという頃、佳乃の母が倒れた。容体によってはこのまま出産になるかもしれないと入院することが決まったのだが、父は仕事を休むことができず、佳乃一人が家に残されることになってしまったのだ。

「近くに親戚がいなかったから困ったらしいんだけど。隣町に住むお母さんの知り合いが、私の面倒を見てくれることになったんだ」

 知り合いといっても母よりも随分と年上の、佳乃からすれば祖母を思わせる人だった。幼い頃に祖父母を亡くしているため、懐かしさを感じ、親しみをこめておばあちゃんと呼んでいた。

「隣町って……あけぼの町、か?」
「そうだよ。剣淵、転校生の癖に詳しいね」
「あ、ああ……」

 あけぼの町は隣町ながら、古くからの町並みが残っている。佳乃たちが住んでいる地域は再開発されたため綺麗なマンションやビルが多いが、少し移動してあけぼの町に入れば畑や地主の平屋が並ぶ田舎の景色に変わる。最近ではあけぼの駅周辺の再開発も進んでいるようだが、駅から離れた地域、特に近隣住民にあけぼの山と呼ばれているあたりはまだまだ古びた空気を残していた。

 そのあけぼの山の近くに、おばあちゃんの家があった。平屋には佳乃だけでなく、おばあちゃんの娘やその子供たちも住んでいた。いま思いだせばあれは住んでいたのではなく、夏休みを利用して帰省してきたのだろう。

「そのおばあちゃんの家でね――伊達くんと出会ったの」
「……伊達と?」

 佳乃は頷く。

 佳乃がおばあちゃんの家に預けられ、そこで出会ったのがおばあちゃんの孫である伊達享だった。

 母や父と離れて預けられた佳乃は、ときおり両親を思い出しては寂しさに泣いていたのだが、この時に声をかけたのが伊達である。佳乃の涙を止めるべく話しかけ、遊びに誘い、悲し気持ちになればいつも伊達に助けられていた。まだ小学一年生である二人は男女の性差を知らず、意気投合するのに時間はかからなかった。

「ここからは……記憶もあやふやなんだけど、」

 ある時。佳乃は伊達に誘われて、あけぼの山に探検に出かけた。山といってもそこまで高さはなく、階段や坂道をのぼりきれば町がよく見渡せる程度のこじんまりとしたもので、子供たちの遊び場でもあった。
 その探検の帰り道で佳乃は転倒してしまったのだ。道を外れて斜面を転げ、怪我はなかったものの、子供一人では登れないところまで落ちてしまった。

 そこで――はっきりとは覚えていないのだが、何かを見てしまったのだ。眩しい光、頭の奥に響く重たいもの。それは佳乃に手を伸ばし、それから鎖のように体を締めつける嫌な言葉を与えた。

『カワイソウに。お前は何も見ていないよ。何も見ていないんだから』
『カワイソウに。お前は嘘をついてはいけないよ。何も見ていないんだから』

 何を見てしまったのかはわからない。だが、おそろしいものだと感じたことは覚えている。

 このことを菜乃花や蘭香に話したことがある。だが嘘だと認識されて呪いが発動することはなかったため、やはり佳乃は何かを見てしまったのだろう。

 この時から佳乃の呪いがはじまっていた。嘘をつけばキスをされてしまう日々が幕を開けたのだ。うっすらと覚えている何者かわからない声は、この呪いに関連しているのではないかと佳乃は考えている。

 剣淵に話すべきか迷ったが、話してしまえば呪いを明かすことになってしまう。三度のキスがあるため呪いを明かす気になれず、この部分は語らなかった。

「探検して……ちょっと転んじゃって。動けなくて困って泣いていたら、伊達くんが助けにきてくれたの」
「あいつが? お前を助けにきたのか?」
「うん。『泣かないで』って言ってくれて……」

 そこからも記憶があやふやである。伊達と会ったことは覚えているのだが、その後どうやって家に帰ったのかまではっきりと覚えていない。気がついた時には、高熱を出して寝込んでいた。

 伊達と佳乃の関係についてだが、十一年前の夏はもう少し続く。
 おばあちゃんから連絡が入ったのか、父が迎えにきて、それからは自宅で過ごすことになった。まもなく母も弟と共に家に帰ってきて、おばあちゃんの家に行くことはなかったのだが――

「……でもその夏の終わりに、おばあちゃんが亡くなっちゃったの」

 急な報せだった。大きくなってから知ったことだが、娘や孫たちが帰った後におばあちゃんは脳卒中によって倒れてしまった。もう少し時期が早ければ家族に見つけてもらえただろうに、一人になった後だったこともあり発見が遅れて、おばあちゃんは助からなかった。

 夏休みが終わる前日、おばあちゃんの葬儀が行われた。世話になったこともあり、佳乃も父と共に向かった。おばあちゃんが亡くなったことはとても悲しかったが、夏休みを共に過ごした伊達に再び会えるかもしれないと楽しみな面もあった。

「どうしてかは……よくわからないんだけど。何か悲しいことがあったの。すごく悲しくて、寂しくて、涙が止まらなくなるようなこと」

 庭に出て、一人、泣いていた。そこで佳乃は出会うのだ。近づいてくる人影、当時の佳乃と同じ年齢の男の子。泣きじゃうる佳乃に近づいて肩を叩く。

『だれなの?』
『伊達……享だよ。だから泣かないで』

 たぶんその時、好きになったのだ。
 この寂しい気持ちを埋めてくれる、温かな存在。伊達享のことが好きになったのだ。

「――って理由なんだけど……なんだか恥ずかしいね、こんな話!」

 話し終えたところで佳乃は笑う。惚気話かと呆れてくれればまだいいものを、剣淵は度々あいづちを打ちながらも真剣な表情をしていて、どうにも照れくさかった。

「三笠……それは、」
「なに? 惚気とか言わないでね」

 笑ってこの空気を誤魔化そうとしていたのだがそれは佳乃だけで、もう話は終わったというのに剣淵は変わらず何かを考えているようだった。

「……本当の話、なんだよな?」

 嘘ではない。佳乃は記憶のままに語っている。それにこれが嘘ならばいまごろ呪いが発動しているはずだ。佳乃は自信たっぷりに「そうだよ」と答えた。

 だから、伊達が好きなのだ。だがその夏以来、なかなか再会することができず――同じ高校に入った時は天にものぼりそうなほど幸せで、泣きそうになった。

「夏のことを伊達くんが覚えているかわからないけど……でも、それでもいいの」