せっかく傘を持っているのに使わないなんてどうにかしている。そのことに気づいたのは駅を出て数分後だった。少しずつ強くなった雨足が佳乃の体を濡らし、髪から滴り落ちてきた雫が顔にかかる。

 剣淵も、服や髪が濡れていた。普段アップバングにセットしている髪は雨水を吸い込んでどっぷりと重たく額に張り付いていたのだ。
 もしかすると剣淵も雨の中を走ってきたのだろうか。走るのが趣味だとは知っているが、まさかこんな雨の日に走ることもないだろう。

 剣淵は――どうしてあの場所にきたのだろう。その答えがでなくて、胸の奥がもやもやと曇っていく。


 一度来ただけだが道は覚えていた。走るといっても剣淵ほど運動神経も体力もない佳乃にとってこの距離は地獄である。マンションに着いた頃には息切れし酸欠寸前になっていた。

 連絡先を知っているのだから先に伺いをたてればよかったと気づいたのは、インターホンを鳴らした後だった。家にいるだろうかと不安になりながら待っていると、ドアの向こうから不機嫌な声と共に剣淵が現れた。

「連絡なしにくるんじゃねーって何度言えば――」

 タオルが首からぶらさがり、垂れさがった前髪の隙間から覗くまんまるに見開かれた瞳に佳乃が映りこんでいる。

 信じられないものを見たとばかりにぽかりと口を開けたまま動かない。数秒ほどの間を置いて、聞き逃してしまいそうなほど小さな声が絞りだされる。

「お前、どうしてここに」
「……剣淵が、気になったから」

 佳乃が答えると、固まっていた剣淵の体が動きだす。

「はあ!? 伊達とデートだろ。なんでここにいんだよ」

 剣淵は「めんどくせーな」と言いながらまだかすかに濡れている髪をぐしゃぐしゃと掻く。それから佳乃の姿をもう一度見て、言った。

「傘持ってんのに、なんでずぶ濡れなんだよ」

 剣淵のことが気になって傘をさすことも忘れて走ってきたのだと素直に言うのが恥ずかしく、佳乃は俯いた。
 その仕草から佳乃が答える気はないと察したのだろう。剣淵はため息をついた後、室内を指さした。

「入れよ。風邪ひくぞ」