手が、伸びる。
 浮島がなにを求めているのかわからずに怯えていた佳乃だったが、その指先が首に触れてようやく佳乃は『遊ぶ』という言葉の意味を理解する。

 首筋を撫でる他人の感触。それはひやりと冷たく、心の底まで震えあがってしまいそうな恐怖を含んだものだった。

「や、やめて!」

 怖がって引っ込んでしまいそうな勇気を無理やり引っ張りだして、叫ぶ。だが浮島は苦笑するだけで止めようとしない。

「そんなこと言われたの初めてだよ。大体のオンナノコは喜ぶんだけど」

 さらに距離を縮めようと迫る浮島を両手で押しのけようとしたが、男女の体格さには敵わず、むなしい抵抗となるばかり。吐息の温度までわかるほど、徐々に体が近づいていく。

「はい、大人しくしてね」

 浮島を遠ざけようと抵抗していた両手は掴まれ、いよいよ佳乃の逃げ場はなくなった。

 浮島紫音は、女好きだと言われている。女子生徒なら誰でも構わず遊び、飽きたら捨てる。二年の女子生徒が急に別れを告げられて泣いて帰ったという話もあった。佳乃や剣淵への態度も近いものがある。本心で向き合うのではなくうわべだけ。それは子供がおもちゃで遊ぶようなものに似ているのだ。

 佳乃はもう一度浮島を見た。怪しげに細まった瞳、からかうように緩めた口元。そんな浮島が苦しそうに見えてしまったのは、教室が暗いからだけではない。

 長い髪が揺れる。その顔が肩に埋もれる直前――佳乃は言った。

「……どうして、自分を傷つけようとするんですか」

 それに反応し、浮島の動きが止まった。

「なにそれ、意味わかんない」
「先輩、楽しそうな顔をしてないです。虚しくて、苦しくて、傷ついた顔をしています」

 浮島が離れていく。不愉快だとばかりに眉根を寄せ佳乃を睨みつけ、珍しく怒気を感じさせる声で返した。

「フツーは逆でしょ。オレ、いままでに何人も泣かせてきたんだよ、なんでオレが傷つかなきゃいけないのさ」
「確かに泣かせて、傷つけてきたのかもしれませんが……でも先輩も傷ついてる」
「ばかばかしい。オレを怒らせたいの?」
「どうぞ怒ってください、でも言います! 先輩はちゃんと人に向き合ってない。深く入りこむほど夢中になれるものがないから面白いものを探しているんだと思います」

 密室による空気と苛立ち。それからうっかり触れてしまった浮島が持つ寂しさに、言葉が溢れて止まらなかった。
 そしてはたと気づく。散々失礼なことばかり言ったのだ、これでは怒り狂った浮島になにをされるかわからない。なだめるどころか逆に煽っているではないか。
 忘れていた恐怖心が蘇り、佳乃はきゅっと目を瞑る。

 だが、聞こえてきたのは意外にも浮島の笑う声だった。

「……ふ、はは、あはははっ!」

 掴まれていた両手も解放されておそるおそる瞼を開けば、浮島は佳乃から数歩ほど離れたところで顔を押さえて笑っていた。

「オレにこんなこと言う子はじめてだよ、おかしいね、笑っちゃう」

 狂ったように笑う、こんな姿をみるのははじめてのことで、佳乃は呆然としてそれを見上げていた。
 ひとしきり笑った後、再び浮島の視線が佳乃に向けられる。

「オレ、本気になれるものってないんだよ。だから正解、よくわかったね」

 迫られた時のような怪しさはない。だが眼光は鋭く、浮島が佳乃を快く思っていないことは伝わってきた。

「それで、オレにお説教してどうするの? 他人と真剣に向き合え本気になれ、なーんて偉そうに言ってるけど、キミの弱味を握っているのはオレだよ。立場わかってる?」
「う……」
「わかってないよねぇ、じゃあ――嘘をつかせちゃおうかな」

 その表情は微笑んでいるのに先ほどより冷えて恐ろしく、もう逃がすことはないと告げているようだった。
 佳乃が自らの発言を後悔しても遅く、じりじりと距離が縮んでいく。