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 大雨になる。冗談として言ったのだろう弟の言葉がまさか本当になるとは思っていなかった。
 伊達を待ち続けて二時間が経っていた。時計と体感時間は異なり、雨が降り始めたのがずっと昔のことだった気さえしてしまう。空腹感さえまったくわからず、勢いを増した雨と寒さに震えている間にどこかへ消えてしまったのだろう。
 何度か連絡もしたが、電話をかけても繋がらずチャットも未読のままである。佳乃が知る伊達は真面目で律儀な男だ、約束を忘れたなんてことはないだろう。連絡がつかないのだって、スマートフォンの充電がなくなったとか連絡が取れないような重大な出来事に巻き込まれたのかもしれない。

 とても、寒い。冷え切った体が震えている。待ち続けて疲れた頭はうつろになっていて、冷静に物事を考える力は残っていない。
 早くきてほしい、安心させてほしい。伊達の姿を思い浮かべて心中で呼びかけていると、声が聞こえた。

「三笠!」

 ぱしゃ、と水たまりを踏む音がする。泥水が跳ねようがお構いなしにこちらへ駆けてくる人物。佳乃が顔をあげるとそこにいたのは――

「え……? なんで、ここに……」

 伊達ではない、予想外の男がいた。
 剣淵奏斗。それは今日ここにくるはずではない者。佳乃と同じように服はずぶ濡れで、顔にべったりとはりついた髪。この雨の中走ってきたらしく息があがっていた。

「な、な、なんで剣淵が……」
「うるせー。そんなん後だ」

 呆然としている佳乃の言葉を荒い口調で遮ると、剣淵は佳乃の手を掴んだ。
 剣淵の手は燃えるように熱い。それほど佳乃の手がかなり冷たくなっていたのだ。火傷しそうな熱さだったが心地よさもあり、手を掴まれても抵抗はしなかった。

「行くぞ」

 佳乃の手を引いて歩き出そうとする剣淵を慌てて止める。

「ちょ、ちょっと待ってよ。行くってどこへ!?」
「ここにいても風邪引くだけだろ。家に帰れ」
「だめ! まだ伊達くんきていないし、それに……」

 伊達の名がでたところで剣淵が苛立たし気に眉根を寄せた。佳乃に向けられた視線は「やはり伊達か」とうんざりしているようだった。

「デートだか何だかしらねーけど。そんなずぶ濡れの恰好でどこ出かけんだよ」
「う……」
「いいから来い」

 まだ伊達を待つと渋る佳乃だったが、剣淵も負けじと手を掴んだままで、それどころかぐいぐいと強く引いて、ベンチからはがそうとしてくるのだ。

 普段ならば抵抗もできたのだが、雨に打たれた体に力はなく剣淵に引っ張られるまま佳乃は立ち上がる。

 それがきっかけとなって、無視し続けていた寂しい感情の防波堤が壊れた。
 一人待ち続けていた孤独、寂しさ。あらゆるものを詰め込んで放置してきたのだ、壊れてしまえば想像以上の物量が漏れていく。

「私、行かないっ! ここで伊達くんを待つの。遅れているのはなにか理由があるからだよ。こんな風に今日を終えるつもりじゃなかったの、ずっと楽しみにしてきたのにこんな……こんな……」

 待ち続けているのは、とても辛かった。十分は経っただろうと時刻を確認すれば数分も経過しておらず時間の経過を長く感じ、通り過ぎていく人たちの楽しそうな姿に羨ましいとさえ思っていた。

 負の感情は伊達がくれば消えるはずだったのだ。だから、どんなに辛くても待っていたというのに。

 今日はじめて、雨が降っていてよかったと思った。俯いた佳乃の瞳から、雨よりも熱いものが落ちていく。今日が晴れていたのなら剣淵に気づかれてしまっただろう。
 数時間ぶりに人と会話することが、こんなにも嬉しくて、温かいと思うなんて。この涙は伊達がこない切なさと、人と言葉を交わした喜びによるものだ。

「お前の事情はしらねーよ」

 剣淵が答えた。突き放すようにそっけない、冷えた言葉で。

「んなとこで待ちぼうけして風邪ひいてるヤツなんか見たくねーんだよ。だからお前を連れていく、それだけだ」
「はあ!? なにそれ」
「恨むなら俺を恨め。俺のせいで伊達と会うことができなかったと説明すりゃいい――とにかく行くぞ、俺まで風邪ひいちまう」

 剣淵が佳乃の手を離さずに歩き出してしまったものだから、そのままついていくしかない。数歩ほどベンチから離れたところで佳乃が聞いた。

「ねえ! どこに行くの?」

 すると剣淵は振り返らずに答えた。地面に叩きつく雨粒もかきけすほどの大きな声で。

「俺の家だ」
「はあ!?」
「ここから近いんだよ。その服も乾かしてやるから、さっさとこい」

 楽しみだった伊達とデートはどこかへ消えてしまい、その代わりにやってきたのが剣淵のお宅訪問である。

 不安だらけだ。困惑し目を丸くしている佳乃は、ひきずられるようにして剣淵の家に向かうことになった。