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 その頃。剣淵奏斗は休日を満喫していた。満喫といっても明るいものではなく、一通りの家事を終えた後はひたすら机に向かって勉強していたのだが。

 一心不乱に勉強していたため、指にペンの跡がついていた。その痛みで我に返った剣淵は背伸びをした。学校で見せることのない黒縁の眼鏡を外して、目の周囲の凝り固まった筋肉を指で揉む。

 時刻は昼を過ぎていたのだが、部屋の中が薄暗い。洗濯物を干した時、肌寒さと湿度を感じたことを思い出して剣淵は立ち上がった。雨が降る前に室内に入れておいた方がいいだろう。

「風邪、ひきそうだな」

 窓を開けて入り込む風の冷たさにひとり言を呟く。五月だというのに今日は寒い。日課のランニングもまだしていないし、買い物だってあるというのに。

「本格的に降る前に行くか」

 毎月買っている雑誌と食料品。ランニングついでに買いにいけばいい。洗濯物を室内に移し終えた後、剣淵は家を出た。


 家を出た時はぽつぽつと降る程度の雨だったが、数分ほど走ったところで本降りとなった。雨粒は大きく、ランニング用のパーカーに雨が染みこんで重たくなっていく。洗濯物を室内に移す判断は正しかったが、傘を持たずに出かけたのは間違いだったのかもしれない。

 アップバングにセットした髪は崩れて前髪が額にはりつき、毛先を伝って雨が頬を流れ落ちた。その流れ落ちていく雨が肌から温度を奪って妙に生暖かく、涙に似ている。

 そういえば、と思いだした。涙から連想して浮かんだのは、忌々しい学生生活。離れようとしても関わってきて学生生活をかき乱していく、三笠佳乃のことだった。
 剣淵としてはあの浮島作戦は忘れたいところである。男と唇を重ねたなんて認めたくない、人生の汚点だ。それに前歯がぶつかった時の、肌が粟立つほど気持ち悪い音は最悪だった。黒板に爪を立てるよりも嫌なものである。あの歯の表面が削られるような音は二度と聞きたくない。

 浮島作戦によって剣淵はプライドなどの様々なものを失った気がしたが、三笠佳乃は違っていたらしい。あれから浮ついていて、授業中でさえも顔がにやけている。好きな奴とデートをしただけであれほど幸せオーラを纏うものなのかと初めて知った。

「ま、俺には関係ねーけど」

 ひとり言は雨音にかき消された。どうせそろそろデートだろう、それで伊達と付き合えばいい。そうすれば剣淵も解放されるはずだ。

 目的地である本屋は駅前を通り過ぎたところにあるのだが、ランニングのことばかり考えて傘を持たずに出てきた剣淵はずぶ濡れになっていた。この状態で本屋に入る気にはなれない。
 一度家に戻って着替えてこよう。その決断を下したのは駅前でのことだった。
 そして振り返った時である。

「……は?」

 雨が降って人も減った駅前、色とりどりの傘が通り過ぎていく中で、傘もささずにぽつんとベンチに座っている人がいた。それは一度見てしまえば目が離せない。雨に打たれ寂し気に俯く人物は先ほどまで思い浮かべていた者――三笠佳乃だ。

 頭の奥で、これ以上踏み込んではいけないと警鐘が鳴った。関わったら面倒なことになる。相手は三笠佳乃なのだから。雨に打たれていようが、どんな表情をしていようが知ったことではない。それに、佳乃は剣淵のことが嫌いだと言っていた。剣淵も佳乃にいい印象を抱いていない。厄介ごとを持ち込んでくるこの女が隣の席に座っていることすら嫌である。だから見ないふりをするのがお互いのためになるのだ。

 なのに、佳乃から視線が動かせない。ここで見て見ぬふりをすればいつか後悔するのではないかと剣淵を責めていた。夏の香りを纏った古い記憶が疼いて止まない。

 雨が、決断を急かした。体に当たる雨粒の痛みも忘れてしまうほど剣淵は考え、それから一歩踏みだす。

 向かう先は駅前の噴水。剣淵は疎ましい雨粒に持ち前の脚力を見せつけるように、ベンチへと走っていった。