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 唇を守ることはできたが、秘密は知られてしまった。佳乃の気持ちはひどく沈んで、憂鬱だった。
 廊下に出て振り返り、浮島の気配がないことを確かめてから安堵の息をつく。緊張し続けていたからか体がひどく疲れていた。

 早く帰ろう、と生徒玄関に向かった時だった。上階から慌ただしい足音が聞こえる。そしてすぐに足音の主が下りてくる。気になって階段の方を向いていた佳乃はその人物と目を合わせてしまった。

「……っ! おい!」

 現れたのは剣淵奏斗だった。剣淵は佳乃の姿を見るなり、荒い口調で言う。

「お前、ここで何してんだ」
「はあ? 何してる……って、これから帰るところだけど」

 浮島の次は剣淵か、と泣きたい気持ちだった。しかも剣淵は、顔を合わせた途端に『ここで何してる』なんて不思議なことを聞いてくるときたものだ。首を傾げながら、佳乃は自分の男運の無さを恨んだ。

「って、あんたこそ、どうして走り回ってたの?」

 剣淵は険しい表情をほんのわずか緩めて壁にもたれかかった。額は汗だくで、呼吸も荒い。

 随分と長い間、校内を走り回っていたのだろうか。剣淵が校内マラソンをする奇妙な想像をしてしまい、吹き出して笑ってしまいそうだった。だが、嫌いな剣淵の前で笑顔は見せたくないと謎のプライドが勝り、佳乃は普段通りを装った。

「忘れ物を探してただけだ」

 佳乃の脳内で行われている剣淵校内マラソンが二周目に入ってようやく、剣淵が答えた。

「見つかったの?」
「お前には関係ねーよ」

 会話が続くかと思えば、早々に打ち切ってくる。やはり剣淵はよくわからない嫌な男である。それでなくても浮島の件で疲れているのだ。気持ちが沈んでいるいま、嫌いなやつにかかわる余裕はなかった。

「じゃ、帰るから」

 そう言って、剣淵の反応を待たずに背を向ける。

 ところで剣淵の忘れ物とは何だったのか、歩き出した佳乃の頭に疑問が残っていた。どうしても気になって、少し離れたところで、そっと振り返る。
 壁にもたれかかっていたはずの剣淵は歩き出していた。先ほどまで慌て走っていたというのに、遠ざかっていく背はのんびりとした足取りだ。

「……見つかったのかな、忘れ物」

 生じた違和感に、佳乃は首を傾げた。