無風だった空間が揺れる。駆け抜けた風に佳乃が振り返ろうとした時、伸ばしかけた手をぐいと引かれた。

「三笠!」

 聞き間違いかもしれないのに、鼓膜がその声音を拾って体が喜びに震える。

 剣淵奏斗だ。きっと近くにいる。
 剣淵の姿はどこにもないのだが、乳白色の世界から前腕がひょっこりと伸びていた。空中に唐突に現れる腕、まったく不気味な光景である。それでも佳乃にとっては見知った指先に剣淵の声が心強かった。

「戻ってこい!」

 そして勢いよく、引っ張られる。抵抗や返答の間はなく、引かれるままにバランスを崩し、佳乃は後方へと倒れこんだ。

 転倒の衝撃に備えて咄嗟に瞳を閉じた佳乃だったが、背中から臀部までどっさりと柔らかなものに包まれるだけで、痛みはなかった。

 おそるおそる瞼を開ければ、乳白色で染められた不思議な世界はなく、あの眩しさが嘘のような暗い場所だった。

「え……うそ、あけぼの山……」

 さわさわと風に揺れる葉音と緑の香り。そこは夜のあけぼの山だ。
 見渡す景色に戻ってきたのだと実感を抱き、そして自らの背に敷いたものを確かめた時である。

「……痛ってぇ、重い」
「け、剣淵!? どうしてここに!?」

 佳乃は剣淵の体の上にあった。後方へと転倒した佳乃を剣淵が体で受け止め、そのまま二人は倒れこんだらしい。
 慌てて離れると、剣淵は痛みに呻きつつゆっくりと起き上がった。

「お前と連絡つかなくなったって北郷と浮島さんから聞いて、探し回ったんだよ」
「……探してくれてたんだ」

 夢、なのかもしれない。学校では喋らず、今日は予定があったはずの剣淵奏斗が目の前にいるのだ。
 いつものごとく走り回っていたのだろう、額に汗が浮かび、普段セットしている髪も乱れていた。そこまで佳乃を探していたのだと思うと嬉しくて、会えた喜びに涙が滲む。

「ありがとう、剣淵」
「詳しい話はあとだ。まずは――」

 剣淵は立ち上がり、衣類についた泥を手で払う。それからゆっくりと前を見据え、佳乃と同じようにあけぼの山に戻ってきた伊達享を睨みつけた。

「三笠に何をした?」
「さすが剣淵くん、野蛮な男だね。僕が彼女に何かすると思う?」

 伊達享も忌々しそうに剣淵を睨み、二人の間に緊迫した空気が流れる。

「僕は何もしていないよ。彼女に提案をしただけだ」
「どうせロクでもない提案だろ、話聞くまでもねーよ却下だ」
「ふふ、どうかな――ねえ、三笠さん、本当に呪いを解かなくていいの?」

 伊達に聞かれて、浮かれていた佳乃の思考が冷えていく。

 そうだった。剣淵の登場に忘れかけていたが、呪いを解くと決めていたのである。

「おいで。呪いを解いてあげるから」
「あ? お前が?」

 剣淵は眉根を寄せて苛立った様子だった。このままでは伊達を殴りにいってしまうかもしれない。慌てて佳乃が説明をする。

「伊達くんが呪いを解いてくれるらしいの」
「なんで伊達が呪いを解けるんだよ?」
「それは僕が呪いをかけたからだよ。もう一度、彼女の記憶を改変すれば呪いを解くことができる。だから三笠さん、」

 呪いを解こう、と誘おうとしたのだろう。

 しかし伊達の元へは行かせまいと、剣淵が佳乃の腕を掴んでいた。自らの方へ佳乃を引き寄せながら、剣淵が聞く。

「記憶を改変って……お前が11年前のことを忘れていたように、また何か忘れるのか?」
「……かも、しれない」
「じゃあダメだ。んなもん必要ねーよ。伊達の言うことは信じるな」

 剣淵は頑なで、佳乃の腕を離そうとはしなかった。

「お前がこいつに何をされてきたのか知ってんのか。呪いをかけられただけじゃねーんだぞ」
「ひどいなあ剣淵くん。僕はただ三笠さんのことが好きなだけだよ」
「ちょ、ちょっとまって! 呪い以外って……どういうこと?」

 呪い以外にされたことなんて心当たりがなく困惑する佳乃を見て、剣淵が舌打ちをひとつ。伊達に怒っているはずが、その怒りを佳乃にぶつけるような荒っぽい声音で答えた。

「落書きだの靴がなくなっただのくだらねー子供みたいな嫌がらせは伊達が犯人だ。それから、お前が伊達にすっぽかされたやつ2回とも嫌がらせだ!」
「……うそ。じゃあ伊達くんは待ち合わせにわざとこなかったの?」
「そうだ。伊達は、お前がずぶ濡れになってでも待ち続けるとわかっていて誘ったんだ。お前が待ちぼうけ食らわされて困ってる姿を見て喜んでるようなクソ野郎なんだよ、伊達は! 気づけよバカ!」
「知ってたなら教えてよ! 剣淵のバカ!」

 気づかなかったことに対するショックもあったのだが、それよりも剣淵にバカと言われたことが頭にきて、佳乃も言い返してしまった。

 剣淵は佳乃を睨みつけ――しかしそこでゆるゆると怒りの火が鎮まっていく。
 ため息をつくように沈んだ声でぽつりと呟いた。

「言えるわけねーだろ。お前の好きなやつが伊達だって、わかってんのに」
「あ……」

 脳裏に蘇ったのは、二回目の、夏のデートだった。

 佳乃が目撃したのは、伊達を殴る剣淵の姿だった。殴った理由は意見の相違で、言い争ったからだと伊達に聞いたが、その詳細まではわからなかった。
 しかし佳乃には、殴られた伊達よりも剣淵の方が傷ついているように見えてしまったのだ。

 あの時、佳乃は剣淵を止めた。伊達を殴らないでと必死に止めたが、剣淵のこぶしは佳乃を思うがゆえだったのだ。
 その理由がようやく判明し、まるで頭を殴られたような衝撃を受ける。