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 その夜。佳乃は菜乃花に電話をかけた。

 八雲と会った時の様子から菜乃花にその話をするのは気が引けたが、剣淵の決意を伝えなければならない。八雲と会う許可を得たこと、そして佳乃も同席する旨を伝えると、菜乃花はと沈んだ声が返ってきた。

『そう……佳乃ちゃんも、一緒にくるのね』
「私がいたら、まずい話かな?」
『そうじゃないの。大丈夫だと思う。だけど――』

 そこでいったん会話が途切れた。声だけで表情まではわからないが、電話の向こうで菜乃花は慎重に言葉を選んでいるのだろう。

 どうにも最近の菜乃花はおかしい。八雲と会う前か、いやその少し前――もしかしたら剣淵に告白をされたと話したから少しずつ変わっていったのかもしれない。

 佳乃が考えているうちに菜乃花がため息をついた。

『佳乃ちゃんは剣淵くんの告白を断ったのでしょう? 伊達くんが好きなのに、そういう態度をとっていていいのかしら』

 ずくり、と胸が痛む。

「そ、それは……」
『似たようなものよ。佳乃ちゃんの好きな人を知っている。結ばれないってわかっているの』
「……そう、だと思う。返答はいらないって言ってた」

 菜乃花の声音は普段よりも低く、表情がわからないことも合わせて、佳乃を責め立てているようだった。

『剣淵くんと付き合う気がないのなら……遠ざけた方がいい。これ以上関わったら、傷つけてしまうだけよ』
「っ、遠ざける、って……」
『一度好きになってしまえば、友達とか知り合いなんて傷を深めるだけなの。見えなくなるぐらい遠くにいってしまった方が救われる』

 堰を切ったように菜乃花が喋り続ける。だんだんと力強く、勢いを増していって、佳乃が口を挟む隙はなかった。

『佳乃ちゃんが伊達くんを好きなことはわかってる。みんなわかってるの。応援しているわ。佳乃ちゃんの片思いが実ってほしいって思っている。だけど私は――』

 ぴたりと、止んだ。言いかけた言葉を飲みこむと共に、菜乃花の声音も落ち着きを取り戻す。

『ごめんなさい……なんだか八つ当たりみたいなこと、してしまった』
「ううん、気にしないで……菜乃花の考えを聞けてよかったよ」

 告白されても普段通りでいられると思っていたが、それは傷つけているのかもしれない。他の男が好きならば、剣淵を遠ざけることが相手のためになる。菜乃花の言葉はぼやけていた佳乃の頭を打ち抜き、我に返させた。

 だが気になることがあった。菜乃花がここまで感情的になることは珍しく、付き合いの長い佳乃でさえ数度しか見たことのないものだ。それがどうして、いまなのか。

 菜乃花と恋愛話をよくしていたが、そのすべては佳乃の恋愛についてだった。伊達くんであるとか、最近でいえば剣淵や浮島といった男たちに振り回される話も。いままでのことを思い返してみるが、菜乃花の好きな人や恋愛といった話は聞いたことがない。

『ねえ、佳乃ちゃん』
「うん?」
『好きな人と結ばれるのって、奇跡だと思うの。二人の想いが通じ合うなんて、奇跡みたいなものだから――私は、佳乃ちゃんを応援してる』

 その言葉から、ある人物が頭に浮かんだ。

 八雲史鷹。
 思えばレストランで史鷹に会った時、隣に座っていたのは菜乃花で、普段よりも緊張していた気がする。『史鷹さん』と呼ぶ時はいつもより弾んだ声で、それは佳乃や剣淵の名を呼ぶよりも優しさを秘めていた。

 菜乃花は、八雲史鷹のことが好きなのではないか。だとするなら、その恋は通じることがない。八雲は姉の婚約者なのだから。

『ごめんね。長く話しすぎちゃった』

 佳乃が辿り着いた仮説を確かめることはできなかった。菜乃花はいつもと変わらない様子で話し、そして通話を切る。


 通話が切れても佳乃は動けなかった。長く一緒にいた友達なのにその恋心にまったく気づいていなかった恥ずかしさと、菜乃花が抱えているだろう傷の深さに呆然とする。

 佳乃は『片思い』しか知らなかったのだ。いつも伊達のことを考え、目で追い、いつかの結ばれる日だけを夢見てきたのだから。

 『片思い』の先に『失恋』なんてないと思っていたのに、菜乃花を通じてその存在を知って怖くなる。恋愛が人を傷つける。そして佳乃も、傷をつけている。

 放課後に掴んだ手の感触が焼き付いて離れない。あの時は剣淵を支えたいと思ったが、実は傷つけてしまったのかもしれない。本当に剣淵のことを思うのなら関わらない方がいいのだと、菜乃花の言葉が頭に渦巻いてる。

 悩みとはつきないものである。改めて、佳乃はその意味を知った。