「なあ剣淵。部活入らねーの?」

 別に聞き耳を立てていたわけではないのだが、男子生徒の一人が剣淵に話しかけるのが耳に入ってしまった。どうやら剣淵は初日からクラスの男子と打ち解けたらしい。彼の周りには何人もの男子生徒がいる。
 部活に関して聞かれ、剣淵が答えた。その声音は自己紹介の時よりも綻んでいた。

「めんどくせーからパス。縛られるの嫌いなんだよ」
「もったいないな、あれだけ足速いのに。陸上部のやつ驚いてたぞ」
「いやいやサッカー部だろ。剣淵ならスタメン入れるって」

 聞こえてくる音だけで、剣淵が楽しそうにしているのだとわかる。それが佳乃の心を波立たせた。

 目も合わせてくれないのだから剣淵がどんな風に笑っているのかわからないのだ。佳乃と話した時はいつだって機嫌が悪かった。なのにいまは、水を得た魚のように生き生きとしている。

 昼食がまずい。剣淵のせいで食事にまで影響が出ている。腹立たしくて唇を尖らせる佳乃を見て、菜乃花が笑った。

「佳乃ちゃん、ひどい顔しているよ」
「剣淵のせいで飯がマズい。ムカつく」
「もうすぐ慣れるよ。女の子たちが騒ぐのももうすぐ落ち着くだろうし……それよりも私は佳乃ちゃんが心配かな」
「私が?」

 菜乃花は頷いた。

「最近の佳乃ちゃん、いいことがないでしょう? そういう時こそ慎重に行動しないと、また呪いが発動しちゃうかも」
「確かにいいことないね……特に男運が最悪」

 佳乃の表情は暗く、長年の親友である菜乃花は不安になったのだろう。急に真剣な顔つきになり「男子といえば、」と言い出した。

「三年生の先輩に、少し有名な人がいるの。昨日も二年の女子を泣かせたって話よ」
「そんな話があったんだ、知らなかった」
「朝からうわさになっていたのに知らなかったのね……佳乃ちゃん、伊達くん以外にも目を向けないとダメよ?」
「返す言葉もないです――それで、どんな話なの?」

 佳乃が聞くと、菜乃花はひそひそと小声で話す。

「それがね。女の子が好きで、いつも遊んでいるらしいの。夜遅くまで街にいるとか、不良グループだなんて噂もある人なのよ」
「こ、怖い……名前は?」
「三年生の――」

 そこまで言いかけたところで教室の扉が開き、女子たちの歓声があがった。菜乃花は話を止めると扉を開けた人物を確認し、にたりと笑みを浮かべて佳乃に言った。

「佳乃ちゃんの王子様が来たよ」

 つかつかと教室に入ってきたのは伊達だった。
 他クラスの生徒である伊達がやってきたということは何か用事があるのだろう。誰かを探しているらしく伊達は教室を見渡し――佳乃と目が合った。
 目が合っただけで鼓動が逸っていくというのに、伊達はこちらに近寄ってくるのだ。昼食の和やかな空気は一瞬で張り詰め、佳乃の頬が緊張で赤く染まる。

 まさか、佳乃を探しにきたのだろうか。期待に胸弾ませるもむなしく、伊達が声をかけたのは佳乃ではなく菜乃花だった。

「北郷さん。先日提出してもらった図書委員の計画書を修正してほしいんだ。放課後時間ある?」
「放課後……ですか?」
「うん。急ぎだからできれば今日がいいんだけど、大丈夫かな?」

 菜乃花は図書委員に所属している。菜乃花は嫌々引き受けただけだと話していたが、部活動も委員会も所属していない佳乃にとって、図書委員や生徒会に所属して忙しなく働く二人が少し羨ましい。

「放課後は……」

 菜乃花がちらりと佳乃を見た。一緒に帰ろうと思っていたのだろう、その視線から察したらしい伊達が、佳乃に向き直った。

「三笠さん、ごめんね。君のお友達を少し借りるよ」
「ど、どうぞ!」

 ここで佳乃に声をかけられるとは思っていなかったのだ。裏返り気味な声で答えると、伊達はにっこり微笑んで「ありがとう」と言った。

 連日のことがあっただけに、嫌われていたらどうしようと思っていたのだが、伊達の態度はいままでと変わらず優しくて、不安が解けていく。
 剣淵のことなんてどうでもいい。今日は伊達と話せたのだからハッピーな日だ。正直者タヌキの頬は緩み、剣淵への苛立ちも晴れていった。