耳のそばで執拗に騒ぐ無音。


僕は、沙奈に向け、言う。


「……ストックホルム症候群って、知ってるかい?」


「え?」


昔、なにかの本で読んだ現象の名前が不意に頭の中に浮かんだ。


それが、沙奈を指しているように感じてしかたがなかった。


不思議そうな声を上げた沙奈。


「立てこもり事件の被害者や、誘拐事件の被害者のように。犯人と長く過ごすことによって、被害者に、犯人に対しての愛情のようなものが、湧くらしいんだ」


紡いでいく僕の声は、どこか無機質で。


きっとそうだ。


そうなんだ沙奈、君は……。


「被害者が一過性の愛情を持つこの現象を、"ストックホルム症候群"と、いうんだ」


――ストックホルム症候群にかかっている。


脳裏に現れる二つの影。


それを振り払うように僕は沙奈の血が染み込んだような赤いサテンの布を見つめ、言葉をあざなった。


「君の愛は、それじゃないのか」


沙奈が口ごもるのを見て、僕は自分の言った問いを理解できずに反芻する。


……君の愛は、ストックホルム症候群に
よるものなんじゃないのか。


どうして?


僕は沙奈が好きなのに。


沙奈を愛しているのに。


沙奈に、好きだと言われて、嬉しいはず、なのに。


――どうして沙奈のことが、
こんなにも恐ろしい?


「……そんなのじゃない。
 わたし、本当にあなたのこと」


僕の中で、何かが割れた。




「黙れ……黙れ黙れ黙れ!!」


沙奈の身体をベッド上に押し倒し、その首に銀のハサミの切っ先を突きつけた。


骨に当たった切っ先から赤い血液が一筋、彼女の白い肌に流れ落ちた。