沙奈と過ごす幸せな日々は、時間は、安らかに過ぎ去っていった。
「沙奈。……僕の愛は重いと思う?」
沙奈の寝転ぶベッドのふちに座り、僕は彼女に問いかけた。
沙奈は「わからない」と呟いただけで、僕は目を瞑る。
沙奈はチアキじゃない。
沙奈は、優しく、僕の愛を包んでくれるはずなんだ。
「昔から、ずっと忘れられない小説のセリフがあるんだ。『愛することは、唯一人間のみに与えられたエゴイスティックな特権である』……本当に、そうなんだろうか」
昔何かの本で読んだ登場人物のセリフを記憶の隅から引っ張り出し、僕は独り言をあざなう。
「僕の母親は、不倫を繰り返す父をそれでも愛していた。不倫をしたあと、夜遅くに帰った父は別の女の匂いを漂わせながら泣いている母を抱きしめるんだ」
お前だけだ、と露ほども思っていないであろう言葉をかけて父は母をなだめた。
「それで父を許す母が嫌いだった。好きなら、本当に愛してるなら、自分だけのものにすればいいのに。そうすれば離れることもないし、悲しむことだってない」
でも、母は違った。
そう言った僕の頭を撫で、泣き腫らした目で微笑んで彼女は悲しい声で語った。
『それでもお父さんは、わたしの元に帰ってきてくれるの。それだけでいい。それだけで……』
沙奈に顔を向け、僕は訊く。
「ねえ、沙奈。
好きだよ。愛してる。
君は?」
沙奈はいつもこの質問をすると、なぜかその瑞々しい唇を結ぶ。
愛してる。
そう言ってくれるだけで、良いのに。
そう言ってくれるだけで、僕の心は満たされるのに、どうして?



