どれくらい時間が経っただろうか。
翔太さんの鼻を啜る音と私の泣き声が部屋に響き、他の3人は何も言わず黙り込んでいた。

アイのことを思うと涙が止まらなかった。
いつも私はヘラヘラと笑って、お母さんのお弁当は美味しいんだとか自慢して、その時アイはどんな表情をしていたのだろうか。
友達なんて言ってはしゃいでいたのは私だけで、アイにとっては辛さや苦しさを打ち明けられる場所ではなかったのだ。

思い返せば、アイは珍しく学校に遅刻してきたあの日からだんだんと調子を悪くしていった。
あの日も家で何かあったのかもしれない。
それなのに私は何も気づかずに、気にも留めなかった。



「翔太は、今日アイが休んでいるのもアイの家族が関係してると思ってるのか?」


重い口を開いたのはレオだった。
内心の読み取れない表情で真っ直ぐに翔太さんを見ている。


翔太さんは目頭を押さえながら、涙声で話し始めた。


「…これまでアイを見てきて、そして昨日のアイの様子も見て、あいつが体調不良如きで休むとは思えない。

あと、近所のおばちゃんが昨日アイの家の前で怒鳴り声を聞いたって今日の朝言ってたんだ」


「…そうか。

俺、今からアイの家に行く」


翔太さんの返事に頷いた後、しばらく考え込むように遠くを見た後で、レオはそう言ってすたっと立ち上がった。


「ちょ、レオ、でもそのまま飛び込んでも」


「どうにかしてアイを連れ出して来る。俺は別にこの街に住んでるわけじゃないし、目をつけられたって困らない」


焦る翔太さんに対してレオは冷静にそう言い切った。
その横でソウジもおもむろに立ち上がった。
思わずじっと見上げると、ソウジは「俺もいく」と一言言った。
あんなにアイに対して冷たかったのに、さすがにあんな話を聞いてしまったらいくらソウジといえど無関心ではいられなくなったみたいだ。


「わ、私も」


ソウジに続いて私もソファから立ち上がろうとしたが、足に力が入らずに、バランスを崩して後ろに倒れ込んだ。


「大丈夫か」


声とともに近寄ってきたレオの影に薄暗いシルエットが重なる。
天井の電灯が作る光が眩く目に飛び込み、こめかみの辺りがズキッと痛むと同時に、記憶がフラッシュバックし、周りがあの日に立ち返る。


「あ、ああ、やめて、ごめんなさい」


記憶を繰り返すように私はあの日と同じ言葉を繰り返し、息を荒くする。
上手く酸素が吸い込まず、水槽に押し込まれたように息ができない。


「メル!」


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


覆い被さってくる男の影が嫌だ。
周りを取り囲まれて動けない。
何度も助けてって叫んだのに、誰も来てくれなくてそれで、

「メル!」


頬に衝撃を受け、目の前のモヤが晴れて鮮明に見えるようになった。
涙でぼやける先に見えたのは、跪いてこっちをまっすぐ見ているタカちゃんだった。


「大丈夫だよ、メル。落ち着こう。翔太ごめん飲み物持ってきて」


「あ、ああ。ちょっと待ってろ」


翔太さんが驚いた表情をしながら、部屋を出ていった。


「ごめんなさい、ごめんなさい、また私、こんな時に」


「仕方ねえよ。アイが酷い目にあってると思って怖くなっちゃったんだろ?辛かったな、もう大丈夫だから」


「大丈夫じゃないよ!私がアイを助けに行かなきゃ。助け出して抱きしめてあげなきゃ」


タカちゃんの優しい言葉に涙が延々と流れ続ける。
だけど、その後ろからレオが厳しい声で言った。


「メル、お前はここに残れ。タカもメルについてろ」


「なんで!私も行くってば」


力任せに反論するが、レオは首を振る。


「ダメだって言ってるだろ。お前がそんな状態で行ったって余計にアイを不安にさせるだけだ」


「でも!」


「お前だってまだ乗り越えられてないんだ。人の心配をする前に自分をもっと労ってやれ」


「…」


答えられずに俯いていると、タカちゃんがそっと私の手に自分の手をのせて、軽く握った。


「メル、俺と一緒に待とう。アイを明るく出迎えてやろう。な?」


そこまで言われるともう大人しく従うしかない。

アイが苦しんでいるのなら今すぐに行って抱きしめてあげたい。
だけど、私がこんな状態になってしまえば、アイはきっと私のことを心配して自分のことをおざなりにするんだ。
だって、アイは自分が何を言われたって一度も反論したり、立ち向かうことはなかったのに、ファミレスに行った時、私に詰め寄ったあの子達に肩を振るわせながら言い返してくれた。
自分のことより他人を大切にしてしまうアイだから。


「絶対に無事に帰ってきて。それで、アイに言ってあげてほしいの。アイは何も悪くないって」


あの時私は自分を責めてばかりだった。
そうではないと思えたのはみんなが私は悪くないと繰り返し言ってくれたからだ。

人一倍ネガティブで自分を責めてしまうアイだから、きっと今もリハーサルに行けずにいる自分のことを責めている。

そうではないんだと仲間の声で一番に伝えてあげたい。


「わかった、必ず伝えるよ。待ってろな」


レオが力強く頷いて、私の頭にポンッと手を乗せてくれた。


レオとソウジが部屋のドアに手をかけた時、ちょうど翔太さんが水を注いだグラスを持って帰ってきた。


「待てお前ら。俺もいくよ。子どもだけ行かせるわけには」


驚いてグラスを机に置きながら、焦った顔でレオたちに向かって翔太さんは言った。
しかし、レオは呆れた顔で首を振った。


「何言ってんだよ。お前が来たら意味ないだろ。お前も大人しくここで待ってろよ」


「でも…!」


「お前をダシに脅されたらめんどくせえんだよ」


認めない翔太さんに、ソウジが鋭い声で言った。
だが、ソウジは意地悪で言ってるのではなく、彼なりに翔太さんを思いやっているんだろう。


「…そうだよな、情けないな俺。お前らに気を遣わせて」


力なく肩を落とす翔太さんに、レオは近づいて言った。


「アイはいつもお前との思い出を楽しそうに話してた。お前のやったことは善悪で言えば悪だと俺は思うよ。
だけど、アイが翔太に救われてたのも間違いじゃないんだと思う。
俺たちが責任持ってアイを助け出してくるから、お前は茶でも沸かして待っとけ」


ぶっきらぼうな励ましだ。
レオは他人に対しては器用で、その人の欲しがっている言葉をさらりと言ってのけるのに、身内には本当に不器用で口調が悪くなりがちだ。
私たちが幼い頃から翔太さんはタカちゃんの家に遊びにきた時なんかに長々と私たちに付き合って遊んでくれた。
翔太さんは私たちにとってほとんどお兄ちゃんみたいなものなんだ。
大切なアイと翔太さんを苦しめている諸悪の根源をレオは絶対に許さないだろう。


レオの言葉の一つ一つを噛み締めるように翔太さんは何度も頷き、顔を手で覆って絞り出すように言った。

「アイのこと頼んだ」


「頼むぞ、レオ、ソウジ」


「いってらっしゃい」


翔太さんに続ける私たちの言葉にレオは微笑を浮かべて大きく頷き、ソウジは何も言わずにさっさと部屋を出て行った。


2人の背中を見送ることしかできない自分が悔しくて仕方がなくて、太ももにある古傷をがりっと爪で深くかいた。