悪魔の花嫁

ジェルゼン•ソーンは確かに寂しかった。
 そして、この時に、初めて気がついた。
 自分の中の空虚に。
 その空虚は今もまだ埋まっていない。
 なんのために生まれてきた?
 悪魔が魂を貪るのは何のためだ?
 理由は簡単だ、悪魔が魂を貪るのは魂を持っていないからだ。
 魂を持っていないから魂が欲しい、空虚な穴を埋めるために欲する。
 しかし魂を食らっても穴は塞がらない。 
 食らっても、食らっても、空虚のままだ。
 悪魔には愛妻家が多い。 
 そして、酷く執着癖がある人間が多い。
 それは物だったり、人間だったり、悪魔だったり多様である。 
 皆、そうして穴を埋めているのだ。
 どうして知らなかったのだろう。
 どうして誰も自分に教えてくれなかったのだろう。
 知っていればこんな思いはしなかったのに。
 愛する者のいない人生は空虚で寂しい。
 ジェルゼン•ソーンは知らなかったのだ。
 まだ間に合う、彼は悪魔の中では若い方だ。
 きっと見つけられる、きっと埋めることができる。
 だから。
 そんな思いの果てに十全はここまでやってきた。




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 それは一年前。
 はじめてこの地に来たあの日。
 その日は特に暑い夏の日だった。
 蝉はみんみんと鳴き求愛の唄を歌う。
 アスファルトは焼けた鉄板のようにジュウジュウと音がしそうだ。
「この国の夏はなんだ、いったい、じめじめして、うっとうしいほど暑い。
悪魔でも汗ぐらいかくぞ。」
 某有名ブランドのロゴマークの並んだ濃いブラウンのスーツケースをささやかな木陰の路傍に置き、その上に腰掛ける。
 彼は自身の長い足を組むとため息を吐く。
 彼は夏用の麻のスーツを脱ぐと、肩に掛ける。
ネクタイを緩め、首のボタンを開ける。
「こんなに暑いとは聞いていない。まるで赤道直下じゃないか。」
 ジェルゼン•ソーンは知らなかったが、その日は日本の観測史上最大の猛暑日であり、気象庁はこの猛暑を三十年に一度の異常気象と認定していた。
 彼は東京のビル群を抜け出し、田舎に向かうことにした。
 人口の多さを考えればこのまま首都に留まる方が賢い選択であったろうが、郊外の自然の多い場所の方が純朴で美しい魂を持つ者が多い。
 なにせ、東京は暑かったのだ。
 霜月市は自然多く、田舎で、過疎化の進む若者離れの深刻な街であったが、そのようなことは当然、彼は知らない。
 霜月という名前からして涼しそうだ、という印象と、京都、奈良に並び、指定文化財の多い土地柄、未だ、いにしえの神々の信仰厚い地であるということを彼は気に入った。
 霜月神社と呼ばれる文化財もその一つで、どうせなら観光でもしよう、彼は外国人向けのパンフレットを読みながら巨大なコンクリートの大鳥居をくぐる。
 なるほど、鳥居の真ん中は神様の通り道であり、少し端に寄って通るのが良いと記載がある。
 彼はパンフレットの指示どおりに端を通る。基本、ジェルゼン•ソーンは真面目だ。
 彼は指示に従い水舎で手を洗い、持っていた米国のコインを木箱に投げ入れ、拝殿の前の大きな鈴をひもを引いて鳴らす。
 思ったより重く、くぐもった音が鳴った。
 二礼二拍一礼。

 祈る。

 『どうか、この空虚が埋まりますよう。』

「ずいぶん、しんけんですね」
 下の方から声が聞こえる。
 随分下の方、自分の左下に巫女姿の幼女がいる。
 白い小袖に赤い袴。
 振り返った自分に幼女は驚いた顔をする。
「わあ、がいじんさんですね。あおい、め。」
 舌足らずの可愛い声だ。
「お嬢ちゃん、巫女さんなんだね。僕の言葉はわかるかい?」
 ジェルゼン•ソーンは出来るだけ優しく声をかける。
「にほんご!」
 彼女の嬉しそうな可愛い声が響く。
「僕の名前はジェルゼン•ソーンだ。君は?」
「じゅうぜんさん、わたしは、きさらぎつゆこ。」
「良い名前だね。」
 ジェルゼン•ソーンはにこりと笑う。
「僕は、沢山日本語の勉強したんだ。ここに住もうと思ってね。君の神様は僕がここに住む事を許してくれるかな?」
「ゆるす?」
 幼女は不思議な顔をする。
「僕はここにいてもいいのかな?君の神様はどう思うだろう。」
 そして、笑う。
「かみさまは、なにもしないわ。」
 幼女は答える。
「何もしない?願いを叶えてくれるんじゃないのかい?このパンフレットにも書いてある。願いを心で念じると。」

 幼い巫女はひっそりと笑う。
 悟ったような笑み、東洋人独特の表情だ。
 ジェルゼン•ソーンは、幼女の目線まで膝を折る。
 騎士の如く、跪く。

「ひとは、ねがうだけ。かみさまは、なにもしないのよ。ねがいごとは、じぶんに。じぶんの、心だけに、ねがうのよ。」

 まさに
 天啓であった。

「君はこの神社に住んでいるの?ここの娘?」
 幼女は頷く。
 そして、ジェルゼン•ソーンは、この地に住まうことにした。
 事業を立ち上げる傍ら、この幼い巫女、如月露子に会うために何度もこの神社に通った。

 何度目かの逢瀬の時に、ジェルゼン•ソーンは露子が欲しくなった。
 会って話すだけではたりなくなった。
 この奇跡みたいに綺麗な魂が欲しい。
「なにか欲しいものはない?露子ちゃん。僕は君の神様と違って、何でも願いを叶えてあげる事が出来るんだ。どうかな。何か言って?」
 十全はこの少女と話す時だけは中世の騎士のように、思慮深く、紳士に振る舞ってしまう自分に気がついていた。
「なんでもいいの?」
 巫女は目を輝かせる。
「そうさ、僕はなんでも叶える事が出来る。」
 十全は露子の手を取り、跪いて手の甲にキスをする。
 自分の空虚も埋められないくせに。
 ジェルゼン•ソーンは彼女の願いが知りたかった。
「わたし、おかねが、ほしいわ。たくさん。」
 彼は驚いた。
 清浄なる、巫女の口から出た言葉とは信じられなかった。
「どうして?」
「かんぬしさまが、いつも、こまっているの。おかねが、ないから、お社はふるいままなの。」
 たどたどしい彼女の言葉にジェルゼン•ソーンは得心がいった。
 願いを叶えたい。
 そして生まれて初めて、誰かの、人間の力になりたいと思った。
「じゃあ、それが君の願いだね。」
「うん。」
 ジェルゼン•ソーンは悪魔の力を使った。
 資産家の氏子を操り、露子を引き取らせた。
 その男は善い人間であったので、彼女の願いは全て叶えてくれたであろう。
 幼い巫女の願いは叶った。
 社は美しく立て替えられ、氏子は増えた。
 年末年始は大勢の参拝客で境内はぎゅうぎゅうになったし、結婚式や葬儀も頻繁におこなわれるような、裕福なお社となった、社務所は増築され、美しい白壁の日本家屋が併設された。
 神主の一家はそこに住むのだろう。
 資産家の男は彼女を甘やかし、安楽な生活を与えた。 
 ジェルゼン•ソーンはその様子をみて満足した。
 そして、願いを叶えたのである。
 そして、対価として彼女を手に入れることに決めた。
 さあ、迎えに行こう。 
 美しく成長した彼女を自分のものにするのだから。

 そのころ、ジェルゼン•ソーンの仕事はようよう軌道に乗ったところであった。
 さすがに、外国人の出自も知れない悪魔がこんな異国で会社を立ち上げるには骨が折れた。
 しかし、彼女を迎えに行くためだ、忙しいのは仕方が無い。
 僕は日本国籍を手に入れ、名前を変えた。
 新しい名前は田中十全。
 自分の名前は彼女の発音をまねて作った。
 十全という漢字は日本語で「完全」に相応することをいう。
 もちろん十全は完全ではない、完全な魂ではない。
 ただ、彼女のこころを手に入れる事が出来れば、きっと十全になれる。
 しかし、随分時間が経って、彼女は自分の事を覚えていなかった。
 当然だ。
 あれから十年以上は経った。
 彼女は俺を恐れ、嫌悪し、共に働き、乗り越え、そして僕を利用することができるようになった。
 汚れなき巫女の少しの邪悪。
 悪魔の花嫁にぴったりである。
 純粋無垢だからこそ、美しい魂だからこそ、その歪み。
 美しさは際立って、白い肌は男を誘う。
 黒髪は艶めいて、瞳は猫のようにきらきらと輝く黒真珠のよう。
 彼女からはいつも花のような良い香りがして、聞けば、整髪料以外には何も付けていないと言う。
 ではこれは魂の香気だ。
 甘い。
 百合の花のようだ。
 彼女はしたたかな小悪魔のように育っていた。 
 それはあの資産家の男が、言われるがまま彼女に何もかも与えたせいであろうか。
 しかし、強欲であることは悪魔の花嫁にふさわしい。
 僕だって彼女の求めるものならなんだって用意することができるし、何でも与えようと思う。
 その程度の事で、彼女の笑顔が引き出せるのなら、悪魔で構わない。
 しかし、彼女の心を奪うのは難しかった。
 僕の恋心を何故か信じてくれない。
 恋がしたい。
 思いを交わしたい。
 十全は心の穴を埋めたい。
 この思いを彼女に伝える必要がある。
 彼女の欲しがるものは全てあげよう。
 それだけでは彼女の関心は買えないようだ。
 だから、十全は心に決めた。

 俺は彼女と恋がしたいのだから。