外はあの日のような春風が吹いていた。
サァ…と風が吹く中、私は彼と出会ったあの桜の木へと向かった。
家からすぐそこにあるはずなのに、凄く遠く感じて、あの日のことも彼のことも遠くに感じて、涙が溢れてきた。
頬をすぅっと幾筋も流れて、その度に涙のあたたかさと彼のあたたかさが重なった。
いつのまにか私は彼の名を呼んでいた。
「…はるき…さ…ん」
ザッと前方から動く音がした。
「…はるこ?」
夜の暗闇から浮かび上がる桜木とそこに立つ…はるきさん。
「泣いているの…?」
優しく尋ねるその声の元に私は駆け寄った。
「はるきさ…っん、はるっ…きさ…ん」
しゃっくりと涙が止まらなくて、自分でも何をしているのかわからなかった。
私は彼に…はるきさんに抱きついていた。
はるきさんは想像以上にがっしりしていて、でも暖かくて、凄く落ち着いた。
はるきさんは私の行動を驚きながらも、そっと抱きしめ返し、頭を優しくゆっくり撫でてくれた。
はるきさんは何も言わなかった。まるで私の気持ちを知っているかのように。
「はるきさんは…いつ行ってしまうのですか」
一番聞きたくて、一番聞きたくない答えを求めた。
「明日の朝には、自分の家に戻らなければいけないんだ」
私は初めて朝が来ることを恨んだ。
夜の間だけの、あと少しの時間。彼といられる最後の時間。しん…とした空気が別れの悲しさを表しているように感じた。
「…私はね笹子おばあさんの初孫なんだ。だから兄弟で一番可愛がられているんだよ」
ふふっと彼が微笑んだ。はるきさんの何気ない話で一気に空気が軽くなったような気がした。私たちは他愛のない話を夜が明けるまでぽつり、ぽつりと話した。
朝日が切株に体を寄せて座る二つの影を地面に描いた。
「眩しい…」
「そうだね…」
彼は私の方を向いた。
「君に出会ったとき、桜の花の中元気に走ってくる姿から目が離せなかった。
春のように明るくて、可愛くて、包み込んであげたくなった。…誰かをこんなに求めたのは、初めてだったよ」
そう言って照れながら微笑む彼の顔が、朝日に照らされていた。
美しく、儚い、彼は初恋のようだと思った。
「…桜の花に包まれているあなたは、暖かな春のようでした。あなたは、私の春です」
別れを前にして、私たちはお互いに自分の気持ちを伝えた。
「ありがとう。…じゃあ行くね」
私に触れていた温もりが離れていく。
サァ…と春風が私たちを包んだ。
鼻に はるきさんの匂いが 香ってきた。
それは あのとき感じた 初恋の香りだった。
桜の花が舞う中、彼は春に溶け込んでいくように消えていった。
私は、はるきさんがみていた桜の木に触れて、見上げた。
「…そんなに舞ったら、花、無くなっちゃうよ」
桜の木の幹は、がっしりしていて、暖かくて、彼を思い出させた。
「私…待っています。あなたが戻ってくるまでずっと…ずっと。」
私ははるきさんの向かった方向とは逆の家路へ歩みだした。

ーend