春よこい

春が来ると あの日の出来事が 走馬灯のように 頭に流れる。

「はるこー、置いてくよー」
「待ってー靴がまだはけてないのー!」
どんどん歩いていく母の背中。多分本気で置いていくつもりらしい。
「…ムカつく」
しっかりと足に入った靴を前へ前へと進めていった。
タッタッタッ……
「ん…?」
桜の花が綺麗な木の下に、それを見上げるようにしてみている男性がいた。
なぜか すごく その人に 目が引かれた。
風が吹くたび、桜の花が彼の周りを踊っていた。そして彼は踊り子の手を取るように、散りゆく花に、そっと触れていた。
「……っ。」
足がつまづいた。一気に視界がぶれて、体は倒れていった。
グシャァ。
もう15なのに、恥ずかしい。起き上がろうと、地面についた手に力を入れた。
ざっざっざっざっ…ざっ。目の前で誰かの歩む音が止まった。
ふわっ、っと体が宙に浮いた。
「ふぁっ……!!」
桜の彼が私を抱きかかえていた。すると彼は近くの木株に私を座らした。
「くつ…履けてないよ」
耳に重たくザラリとした、でもどこか暖かい声が聞こえた。
「へ…あ、本当だ…」
「痛いとこ、ない?」
「膝がちょっと…あ、あのありがとうございます」
「膝…たしかにちょっと血が滲んでる。ちょっと待って」
そういうと、彼は近くの川辺に行き、水筒に水を入れた。
戻ってくると、今汲んできた水を私の膝に流した。
膝にあたる冷たい水、私の膝を支えるようにそっと添えている彼の手の温かさ。
サァ…と耳に春の風が流れた。
彼の髪が揺れ、黒石のような瞳が私の目を捉えて離さなかった。
身体が熱で溢れた。
「…滲みる?」
「いえ…」
コポコポ…と時を刻むように水が流れた。だんだん音は小さくなり、水も細くなり、途絶えた。
「ん。消毒はできたから」
「はい」
「気をつけていくんだよ」
「はい」
彼の言葉に相槌を打つことで精一杯な私がいた。頬も耳も頭も熱かった。
ケガとは違うふらつきに耐えながら、私は切株から立った。
「ありがとう…ございました、本当に」
彼の全てを目に焼き付けていきたかった。でも、顔を上げることができなくて、そのまま歩き出した。
「…はるこ」
「え……」
「…って名前なの?」
母がさっき呼んでいたのを聞いていたのだろうか。彼が…私の名を。
「はい…父が春に生まれた子だからと…」
桜並木の下、彼と私が向かい合う。ここだけ違う世界なのかと思うほど、桜が綺麗に舞っていた。
「君に ぴったりの名前だね。」
彼の顔は緩めることはなかったけど、何故だか微笑んでいるように見えた。
「あ、あなたの名前はっ?」
何故か震えてしまう声で、彼に尋ねた。
「…」
彼は一瞬、理解が遅れたかのように言葉を閉ざした。
「はるき…春生まれなんだ」
「はる…き」
「うん」
「とても、とても貴方にぴったりな名前だと思うわ!」
心からそう思った。桜の花に包まれている彼は、春の一部かと思うほど、暖かく見えた。
何故か困ったような顔をして、彼は頭を下げて背中を向けた。
ゆっくり離れていく大きな背中と周りを舞う桜の踊り子を目に焼き付けた。
桜の甘い香りが 私の初恋を 包んでいた。
「…」
「なかなか来ないから見に来たけど、まさかイチャイチャしているとは」
「お母さん!?いつから、」
「ちょうど今よ。ところであの子、笹子ばぁさんとこのお孫さんじゃないか」
「お隣の?!…知らなかった」
「…来たんだって。あれが。だから家族で集まってんだろう」
「あれって…赤…紙?」
お母さんの顔が険しくなった。お父さんは「あれ」が来てから帰ってきていない。
つまり、そういうことだろう。
「…行こっか。」
重たくなった空気の中、彼の事が頭から離れなかった。
彼も…父さんみたいに…?
私はギュ…っと唇を噛んだ。