「芹花はこれからすぐにサイン会に向かうんだよね?」
「うん。この上の客室で出版社の人が待っていて、そこで着替えてから会場に行くことになってる。だけど……」
芹花はエレベーターに近い場所で荷物を足元に降ろすと、あたりをきょろきょろと見回した。
「なに? まさか、本当に御曹司がやって来るの?」
綾子も周囲に視線を向けた。
「時間的にはそろそろ着いてもおかしくないけど、途中で我に返って引き返したかも」
綾子の言葉に芹花は「そうだといいんだけど」と答えるが、何度となく届いたメッセージの勢いを考えれば、それはないだろう。
昨夜も芹花が同級生の男性から言い寄られないだろうかと不安を口にし、今着ている芹花のドレスでさえ「似合いすぎるドレスを選んだ自分を殴ってやりたい」と訳のわからないことを言っていた。
この間の記者会見以来、悠生への注目はかなりのもので、その見た目の良さはもちろんだが、会見で見せた仕事への強い意欲も相まって、評価は右肩上がり。
連日ワイドショーを賑わせている。
そのおかげで芹花と楓との記事についての騒ぎは多少鎮まり、今では週刊誌だけでなく、お堅い経済誌や新聞でも悠生の特集が組まれるほどだ。
木島グループの歴史について詳しく書かれている記事を見つければ、芹花はそれを何度も読み返した。
腹を括った悠生の隣に立つために、芹花も覚悟を決め、新聞や雑誌の記事を読みながら、日々知識を増やしている。
「あ、御曹司の登場」
綾子の声に、芹花がホテルの入口に顔を向けると、ちょうど悠生が回転扉を抜けてホテルに入ってきた。
「本当に来ちゃった……」
悠生の姿を見た芹花の脈はトクンと鳴り、嬉しくて頬は緩むが、周囲には大勢の人がいる。
今話題の悠生が現れれば騒ぎになるはずだ。
それだけでなく、芹花と一緒にいるとなれば騒ぎどころではない。
綾子も同じことを考えているようで「これってまずいよね」とぶつぶつ言っている。
「絶対にまずいよ。ほら、悠生さんに気づいた人たちがスマホで写真撮ってる」
芹花に向かって極上の笑顔を浮かべて歩く悠生の近くで、スマホを構える人たちがいる。
その様子を見た人たちがざわざわし始めた。
「あの御曹司、何も考えてないよ。ほら、芹花を見てあんなに笑ってるし」
芹花を見つけて足早にやって来た悠生は普段のスーツ姿とは違ったベージュのクールネックセーターにブラックジーンズが新鮮で、芹花は思わず見とれた。

