『あのさ俺……』

俺があのとき、怖気づかずに素直になれていたら。
今が変わっていたかもしれない。

その記憶は、今でも自分の奥の方で、時に悪さをする。

『……ねえ。明日も晴れかなぁ。明日キャンプに行くの』

ゾクッとするほど艶やかで、優美で、儚い、作り物みたいな笑顔。
それが俺が見た、最後の彼女の姿。



「藤堂さん。十一時からの山辺様・桃田様がお見えになりましたので、二階にご案内しております」

「……あ、あぁ。ありがとう。すぐ行くね」

そして今も、だ。
ふとしたとき。
例えば今のように、このあと立て込んだ予約に対応するために、減らしてもいない腹に、昼食を無理矢理押し込んでいるときも。

ごくたまに、あの残像がよみがえる。

残り一口の焼きそばパンを、ぽいっと口に放り込んだら、惰性でそれを噛み砕きつつ、トイレへと歩き出す。

行儀が悪い?
たしかに、その通りだ。

だがこの時期は、ここではそれが当たり前のこと。
人気シーズンの秋挙式に向けて、春~夏の間は、プランナーにとって息つく間もないシーズンなのだ。

シャカシャカと忙しなく、歯ブラシを左右に動かす。
鏡に映ったそんな自分の顔には、意外にも艶があった。
やはりなんだかんだと言っても、やりたい仕事に就けている自分は、幸せなのだろう。

だからこの時期は、“忙しくて大変”とか、“疲れた……”とか、そういった感情たちとは、しばし別居することに決めている。

でなければ、“やりがい”の邪魔をしかねないからだ。

それは今しがた、「今日も残業だ」と断りを入れた俺を責め立てる、彼女の存在とも重なる。
長ったらしいメッセージは、開かずに閉じた。

二十四時間効果が持続するらしい口臭ケア用品で、仕上げのうがいをしたら、一度鏡の前で大きく深呼吸。

「……よしっ」

そうして俺は、別の幸せで充満する、ウェディングサロンへと急いだ。