そうして、リナの心理相談所での生活が始まった。

 服装も初日はスーツだったが、えんじ色の作務衣を渡された。

 和服は着慣れないが、いざ着てみるとなかなか動きやすくて作業がしやすい。

 しかし、あやかしたちを出迎えてその悩みの解決の手助けができたらと意気込んでいたリナだったが、はじめに押し付けられた仕事はリナの想像とはまるで違っていた。

 リナの主な仕事は、完全に雑用だった。
 いや、雑用どころではなく、粟根の面倒を見る係と言ったほうが正確かもしれない。

 粟根が「コーヒーが飲みたい」と言ったら、すぐさま用意する。

 粟根がお腹すいたと言ったら、ご飯をつくる。
 粟根の溜めに溜めた、山のような洗濯物を洗って干して、心理相談所の掃除だけでなく、粟根が住まいとして使っている二階の掃除もリナの仕事になっていた。

 粟根が住む二階は、お風呂や洗面所もあるひとり暮らし用の住まいだ。
 一階ほど広くはないし、そんな散らかってはいないが、それでもなかなか骨が折れる。

 そしてやっと空いた時間で、分厚い妖怪図鑑を読み込む。

 小さいころから父親とふたりで暮らしてきたため、リナにとって家事をすることは苦ではない。
 はじめこそ文句も言わずに粟根に指示されたことをせっせとこなしていたが、そんなことが一週間続いたあたりで、リナは気付いた。

 この相談所は、大丈夫なのだろうかと。

 なにせここ一週間、来客がないのだ。

 改めて予約張を見てみると、予定も入ってない。

 本当にこの相談所は機能しているのだろうかと、リナは不安になった。

 ちゃんと給料が出るかどうかも心配だ。

 そしてついにリナは確信に迫る。

 最近粟根がハマっているキャラメルマキアートをつくって長テーブルに置くと、ソファに寝そべる粟根を見下ろした。

「粟根先生、私は家政婦としてここに雇われたわけではないと思うのですが……」

 もともと、リナは心療相談の助手として雇われていたはず。
 そのためにあの分厚い妖怪図鑑と格闘もしているのだ。

 クッションを頭の下に置き、長い足をクロスさせてソファの上で優雅に読書を嗜たしなんでいた粟根は、リナのその言葉を聞いて、顔を上げた。

 そして至極まじめな顔をリナに向けて頷く。

「ええもちろん、リナさんのことは優秀な助手として雇っています。どうして家政婦だなんてリナさんが思っているのか、不思議ですねぇ」

 と言って、粟根が白々しく目を泳がせたのを見て、リナは怪しい、と思い目を細めた。

 そしてそのまま粟根の心の声に耳を澄ませると、

『いけない。このまま本来の仕事とは関係のないところで、リナさんをこき使ってるってバレたら、この自堕落な生活がもう送れなくなってしまう……』

 と悔しそうに粟根が心のなかで呟いていた。

「私は粟根先生の自堕落な生活を助けるためにこの仕事についたつもりはありませんからね⁉」

 リナが怒鳴ると、先ほどまで白々しい態度だった粟根は隠すのをやめたようで、キリッと目元を鋭くさせるとゆっくりと上体を起こした。

 先ほど、リナが持ってきたキャラメルマキアートに手を伸ばそうとするので、リナはすっとキャラメルマキアートを粟根の手から遠ざけた。

 どういうつもりで働かせているのかを吐かせるまで、このキャラメルマキアートは飲ませない、とリナは鋭く粟根を見やる。

 粟根は観念したように座り直して、その秀麗な顔で真っ直ぐリナを見た。

「まあまあ、リナさん、落ち着いて。だって、相談者が来ないんですからしょうがないじゃないですか。そうとなれば相談者が来るときのために体力を温存することこそが大事な仕事です。そう思いませんか?」

『まあ、来ないなら来ないで私は全然構いませんけどね。このままずっと、キャラメルマキアート飲んでゴロゴロしていたい』

「内心、ゴロゴロしたいってめちゃくちゃ思ってるじゃないですか!」

 粟根の心の声を聴いてリナが頬を膨らませると、またゴロゴロ、ゴロゴロと地鳴りのような音が聞こえてきた。

 しかし今度は粟根の心の声ではない。

 どうやら外から聞こえてくるようだ。

「え? この音なんですか? ゴロゴロゴロゴロ、上から聞こえてくるんですけど……」

 そう言ってリナは窓のほうに目を向けた。

 粟根も窓を開けて外の様子をうかがう。
 つい先ほどまで明るかったはずなのに、雲が空一面を覆って今にも雨が降り出しそうだ。
 このびりびりとお腹に響くような音はどうやら雷雲のせいらしい。

「雨のない雷ですか。リナさんが相談者が来ないことに不満を言ったりするから、どうやら大型の相談が来たみたいです」
「え?大型の相談ですか?」

 と、リナが聞き返すと、窓の外から「アーニキー!」という少年のような甲高い声が聞こえてきた。