一冊だけでもかなりの分量だ。そしてまだなにをするのかわからないが、ほかにもしなくてはいけない仕事があると考えると……。

「無理です……!」

 リナはそう言って首を振った。

「なら、一ヶ月で。これを頭に入れないと仕事にならない。基礎の基礎ですから」

 粟根はそう当たり前のように言って、角砂糖を十個は入れたものすごく甘いであろうコーヒーを口に運んだ。

 それとともに、
『早く使い物になるようにしないと私が楽できないし』

 と、呟く粟根の声が聴こえてくる。

「いやいや、それ自分が楽したいがためですよね!? 聴こえてますからね!?」
「そのとおりです。いやあ、サトリの力は素晴らしい。言わなくても察してくれるんですから」

 そうはっきりと言う粟根にリナはめまいがしたが、それでもどうにか倒れる前に踏ん張った。

「まあ、この本の内容を読み込むことが仕事に必要だというのなら、読みますけど……」

 そう言ってリナは視線を再び本に戻す。

 詳しく妖怪のことが書かれている。

 必要な知識もあるだろうが、いかんせん非効率的なように感じる。

 それに、先ほど粟根は悩みを聞くときに、その人の文化を知らないと相談者がどう思って悩んでいるのかわからないと言っていたが、リナは心が読めるのである。相談者がどう思って悩んでいるのか、心を読めば一発でわかるはずだ。

 もしかしたら、粟根はリナをいびるために意味もないことをやらせているのではそんな考えが浮かんだそのとき……。

「リナさん、私が意味もなくリナさんをいじめるためだけにこの本を読めと言ったのだと思ってますね?」

 粟根がじとりとリナをねめつけて、嫌味たらしくそう言った。

「粟根先生はやっぱり心が読めるんですか!?」リナが驚いたようにそう言うと、粟根は大きくため息を吐いた。

 そんなわけないだろうと、心から人を馬鹿にするような粟根の仕種に、リナは少し不機嫌な顔をつくる。

「愚かなリナさんに、一応説明しておきましょうか」

 呆れを隠さず粟根はそう言って、再び口を開いた。

「リナさんでもわかるように人間の話で言いますけど、例えば、とある東北地方の学校のある女の子が、マラソン大会の練習はこわいから嫌だ、と言ったらリナさんはどう思いますか?私の心を読んでのカンニングは禁止です」

 そう唐突に粟根に問題をふっかけられたリナは、うーんと首を傾げた。

「え、どうって……。マラソン大会の練習で、なにか怖いことをされてるんじゃないですか? ゆっくり走ると、先生に叩かれるとか! それか、友達がいじめる。あ、もしかしたら、マラソン大会のコース中になにか苦手なものがいて、そこを通るのが怖いからとか!」

 リナは思いつくまま答えた。粟根はそれを聞いて感心したように「意外とリナさんは想像力がありますね」と言うが、次の瞬間にやりと意地悪な笑顔をリナに向けた。

「しかし、ハズレです。大ハズレですね。その女の子が言っていたことはもっとシンプルです。女の子の本心は、マラソン大会の練習は、疲れるから嫌いだと思っています」

「は……?」

 思いもよらない回答に、リナが思わず呆けた顔でそう言うと、その顔がよっぽど間抜け面だったのか粟根は残念なものを見るように首を振った。

「リナさん、年頃の女性がそんな顔しないほうがいいですよ?」

「だ、だって、なんで疲れるって、え、だって、怖いって言ってたじゃないですか」

「リナさん、方言って知ってます? 東北の一部の地域では、疲れてつらい状況のことを"こわい"と表現するんですよ」

「え? そうなんですか? そんなの、知らない……あ」

 自分で言っていて、リナは気付いた。

 知っているのと、知らないのとで発生する意思の疎通の行き違いについて。

「言語も文化です。その人の文化や背景を知らないと、思いもよらない行き違いが生まれます。さ、私が懇切丁寧に説明したんですから、きちんと二週間で読み込んでくださいね」

 粟根は勝ち誇ったような顔でそう言うと、分厚い本を改めてリナに押し付けてコーヒーを飲み、「ちょっとコーヒー濃いですね」とふてぶてしい顔で文句を垂れた。

 さりげなく読み終えるまでの期間が一ヶ月から二週間へと短くなっているが、リナは言い返す言葉が見つからず、大人しく妖怪図鑑なるものに目を落とした。