ヨハン・セバスチャン・バッハ作曲、管弦楽組曲第3番ニ長調、通称『G線上のアリア』
 

幼稚園年長の時に弾いた曲だ。終始穏やかな曲で、難易度も決して難しいという訳ではないが、ピアニストの弾き方によって、曲質は随分と変わってくる。
 

これを弾いていたときは、俺は純粋にピアノが楽しいと思っていた。
 

指を動かして音が自分の耳に入ってくるたびに、『これは、俺が弾いているんだ』と、嬉しくなっていた。
 

「空川、入ってこい!」
 

先生に呼ばれて、はっと意識が戻る。
 

入らなくては。
 

俺は、手を扉に掛け、大きく息を吸った。
 

大丈夫、視線なんて慣れたものじゃないか。
 

俺は、自分にそう言い聞かせると、ドアを開けて顔を上げた。
 

ドクッ
 

心臓が、飛び跳ねた。胸の辺りが痛くなって、体全体に吐き気が襲ってくる。