思わず、訊ねてしまった。
「喜代美は……ここに来たことを後悔してる?」
喜代美は瞠目して見つめてくる。
突拍子もない言葉に、多少面食らっているのかもしれない。
「まだ私を、実家に帰そうとお考えですか?」
「いや、そうじゃなくって……。跡を継ぐなんて、本当は嫌だったかな……なんて」
もごもごつぶやく私に、喜代美は笑った。
「おかしなことをおっしゃるのですね。男子ならば、誰でも立身出世を望むはずです。
私だってこの家の養子に迎えてもらわなければ 一生部屋住みのまま藩のお役にも立てず、
家督を継いだ金吾兄に養われながら、厄介者で終わっていたかもしれないのですよ?」
「……そりゃ、そうだけど」
けど、喜代美はおよそ野心とか出世とか、そういう欲とは無縁な感じだから、それが本心とは思えないのだ。
「さより姉上」
喜代美は優しい微笑を浮かべて、私を見つめながら答えた。
「私は後悔などしておりません。むしろこの家に来られたことは、このうえもない僥倖だと思っています」
「喜代美……」
……本当に?本当にそうならいいけど。
津川の家に来たことが、喜代美を縛りつけてなければいいのだけど……。
※瞠目……驚いて、あるいは感心して、目をみはること。
※部屋住み……武士の子は、嫡男といえど家督を相続するまでは「部屋住み」と呼ばれ、次男三男にいたっては養子になるか婿に入るか、それとも学問などを身につけ 医者や学者になるしか身を立てる術がなく、一生部屋住みで終わる者もいたという。
※僥倖……思いがけない幸運。偶然に得る幸せ。
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