彼は黙って白鳥を見つめる。
無言で佇む姿に、怒らせたかな、と不安になる。
けれど、白鳥に向けていた視線を再びこちらへ返すまなざしは、先ほどと変わらず穏やかなものだった。
「じゃあ、次に会うのは今度の日曜日にしませんか。それなら構いませんよね、学校も仕事も休みだし」
「……はあ?」
「10時にここで待ってます」
彼はにっこり笑う。めげてない。
私はまたぽかんと口を開ける。
(この人、遠回しに断られてるって思わないのかしら?)
一歩も退かないそぶりの彼に困惑する。
「……なんで初対面の私にそんなに興味を持つの?」
「僕は初対面じゃありませんよ。何度も見かけてますから」
なんて断りを入れてから、彼はすぐさま自信に満ちた表情で答えた。
「そうですね、予感がするんです。僕にとって、あなたが大切な人になるって」
「………!」
臆面もなく言われて、いっきに恥ずかしくなる。
そんなこと言われたことないから心臓が破裂しそう。
「……っ、あんた、おかしいんじゃない⁉︎」
許容範囲を超えたパニックで思わず叫ぶ。彼は不思議そうに小首を傾げて、何回か大きくまばたきした。
「おかしいですか」
「そうよっ!おかし過ぎるわよっ!」
その言い方が変だったみたいで、彼が吹き出す。
顔が真っ赤になる私の前で、彼は笑いながら言った。
「これでも必死なんですよ。そうでないと僕なんか、取りつく島もないじゃないですか」
「えっ、必死って……」
「だって僕は、去年初めて見た時から、ずっとあなたのことが気にかかっていたんです。あなたがとても寂しそうな目で白鳥を眺めていたから」
その時のことを思い返してか、寂しそうな笑みで話し続ける。
「目が離せなかったんです。なぜなんだろうって気になってしかたなかった。
だけど僕は臆病で、勇気が出なくて、ずっと声をかけることができなかった」
まっすぐ私に視線を向ける。意外な言葉に驚いていた。こんなにカッコイイ人でも臆病になることがあるんだ。
「あなたはまだ高校生で、社会人になった僕が話しかけたら、警戒してもうここに来てくれなくなるんじゃないかと思って。
でも、暖かくなって湖を離れた白鳥とともにあなたが姿を消したとき、声をかけなかったことを後悔しました」
言いながら、彼の表情に翳りがさす。
「あなたが来てるんじゃないかと、冬が来る前もたびたびここへ足を運びました。でもあなたを見かけることはなかった」
言われて気づく。たしかに私は、冬にしかここへ来る気になれなかった。
白鳥がやってくる、この季節にしか――――。
「だから冬になって、白鳥の飛来とともに、もしまたあなたが現れてくれたら―――今度こそ話しかけようって決めてたんです」
真摯なまなざしで告げられて、胸が熱くなる。
こんなの、ときめかないはずがない。
「あなたは、現れてくれました」
(うそ……やだ。これじゃあ、告白じゃない)
私の知らないところで1年間、この人はそんな思いを抱えて、去年からここへ来てずっと待っててくれたんだ。
私を――――見つめてくれていたんだ。
なぜだろう。何かとっても温かなものが、全身に伝わってゆく。
それが身体中に満たされて、膨れあがって、知らず涙がこぼれた。
ぽろぽろこぼれ落ちる涙を見て、彼は初めて動揺した。
「あ……っ、すっすみません!」
あたふたしながら、スーツのポケットからハンカチを取り出すと、私に差し出してくれる。
「そうですよね、あなたにとっては初対面なのに、いきなりこんなこと言われたら怯えちゃいますよね。すみません、怖がらせて」
そんなふうに謝られると、彼の気遣う優しさが身に沁みて、余計に涙があふれてしまう。
ハンカチを受け取って目元を押さえるけど、涙はこぼれるばかり。
「まいったな……泣かせるつもりじゃなかったんだけど……」
彼の困ったような声が落ちてくる。
ごめんなさい。そうじゃないの。
言いたいけど、のどが詰まって言葉にならない。
せめてもの思いで、うつむいたまま首だけを左右に振る。
彼が身を屈めた。背の高い彼の目線が低くなり、うつむく私の顔を覗き込むように見つめる。
「すみません……でも本当に、いい加減な気持ちで言ってる訳じゃないんです」
分かってる。分かってるよ。
なぜか分かるの。
謝ってばかりのあなたが、偽りのない人だって。
「今日、言葉を交わして確信しました。……きっと僕は、ずっとあなたに恋をしていたんです」
驚いて、一瞬涙が止まる。彼を見つめ返すと、真摯な瞳と視線が絡み合う。
嘘偽りのない、鋭いくらいまっすぐな――――。
「どうか怖がらないで。信じてもらえるよう、誠意を尽くします。だからどうか、僕にチャンスをくれませんか」
「ちがうの……」
やっと言葉が出てきて、何とか伝えようとする。
彼も、まっすぐ私を見つめて、次の言葉を待つ。
「ちがうの……嬉しかったの。これは、嬉し涙だよ」
涙声ながら告げると、驚きに見開いた彼の瞳が、次第に柔らかく細まってゆく。
「よかった―――」
心底 安心したようにつぶやいて、彼は笑った。
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