この空を羽ばたく鳥のように。




 ――――その後も明治政府は、中央集権国家のもと『富国強兵』を(かか)げ、混迷しながらも日本の近代化を進めていった。

 徴兵制度や地租改正などの政策を次々と打ち出し、学制も公布され、全国に小学校が建設された。

 交通では鉄道が開業し、蒸気機関車が運行した。街道も整備されたことにより馬車や人力車が普及した。
 電信回路の敷設も徐々に広がり、郵便制度も設けられた。

 建物もレンガを用いた洋風建築が増え、ガス灯が灯され夜でも明るく賑やかになった。

 (こよみ)も今までの天保暦(太陰太陽暦)からグレゴリオ暦(太陽暦)を採用した。


 政治面では、明治六年に征韓論争に敗れた西郷隆盛や江藤新平など半数の参議が辞職、それにともない、軍人•官僚の約六百人が職を辞する政変が起きた。

 そして、不平士族の暴動が次々と起こる。

 決定打になったと思われるのは、明治九年に政府が発布した廃刀令と秩禄処分である。このため士族は武士階級以来の帯刀•俸禄の支給というふたつの特権を奪われる。これは士族にとって精神的にも経済的にも打撃を受けるものだった。

 これが契機となり、明治九年のあいだに神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と反乱が立て続けに起こる。

 大規模だったのは、翌明治十年一月に起こった西南戦争。西郷隆盛を擁した薩摩軍と明治政府との戦い。

 国内最後の内戦となったこの戦いに、警視庁に奉職した旧会津藩士や、同じく賊軍と呼ばれた東北諸藩の旧藩士も多数政府軍として参戦した。

 この戦争は同年九月に明治政府に鎮圧されたが、佐川官兵衛や下平次孝(英吉)など多くの会津人を含め、両軍でたくさんの命が失われた。



 明治二十六年十二月。松平容保公が肺炎のため、東京小石川の自邸にて亡くなられる。享年五十九歳。

 容保公の薨去(こうきょ)後、一本の竹筒が発見された。

 戊辰戦争後、ひたすら辛苦する旧家臣を思い、寡黙を通した容保公が、死ぬまで肌身離さず持ち続けていたと見られるその竹筒の中には、孝明天皇から拝領した御宸翰(ごしんかん)御製(ぎょせい)が入っていた。

 これは会津藩が天皇の信頼を得ており、けして朝敵ではなかったという唯一の証だった。





 時は移り、昭和三年九月二十八日。

 この日、大正天皇第二皇子•秩父宮(ちちぶのみや)雍仁親王(やすひとしんのう)と、容保公の六男•恆雄(つねお)氏の長女である勢津子(せつこ)妃殿下の婚礼が執り行われた。

 皇族と会津松平家の結婚は、『朝敵』と呼ばれた旧会津藩の復権を意味するものとして、旧会津藩士とその子孫にとってまさに長年の雪辱を注ぐ感涙の出来事であった。

 ()しくもその年は、戊辰戦争からちょうど六十年経った、同じ戊辰の年であった。



 ―――その吉報は、青年が工房で作業していた時に、仲間が手にした新聞によりもたらされた。



 「そうか……!」



 会津藩の艱難辛苦(かんなんしんく)は、祖父母から何度も聞かされてきた。自分にとっても他人事じゃない。
 これまで朝敵と蔑まれていた会津人にとっても、心が晴れる日になったに違いない。

 「他の奴らにも報せてくる」と興奮しながら新聞を(つか)んで駆け出していった仲間を見送って、青年は晴れやかな気持ちで再び工房に戻った。


 この工房は祖父が(おこ)した。青年で三代目である。
 青年の祖父はもともと手先の器用な男で、会津に移り住んでから仕事を得るため職人に学び、独り立ちして張り子の工房を作った。

 こつこつ真面目に働いた結果、幸いにも家業は軌道に乗り、けして贅沢はできなかったが、食うに困らない生活を送ることができた。

 小さい頃から祖父母や両親の仕事を見つめ続けていた青年は、自然とその仕事を引き継いだ。

 祖父母は、孫である青年をとても可愛がった。
 幼い頃の青年は、いつも祖父のあぐらの上に座って、(あご)に生やした白い髭の中に隠れている大きなホクロを見つけては、手で触るのがクセだった。
 祖父は嫌がりもせず、にこにことそれを受け入れた。そして何かにつけ、自身の昔話を孫に語って聞かせるのだった。

 とくに多かったのは、六十年前にこの地で起こった会津戦争のこと。
 それはけして恨み事などではなく、戦の最中や籠城中に起こった事件や珍事を、面白おかしく語ってくれるのだ。

 小さい頃はその話をハラハラドキドキしながら聞いていた。怖いと思うことはあっても、飽きることはなかった。

 せがんで何度も話してもらったのは、祖父母が世話になったという侍の話。祖父が熱く語る侍の武勇伝は、幼い心を刺激し、強く揺さぶるものだった。



 作業場に戻って仕事を再開する。両親は最近引退して今はひとりでこの工房を任されている。
 青年はあぐらをかくと筆を取り、目の前に並ぶたくさんの起きあがり小法師のひとつひとつに、丁寧に顔を描き入れていく。

 どの工程もひとつとして雑にはできない。それは祖父から厳しく教え込まれていた。

 そして小法師の顔を描き入れるコツも、祖父から教わっていた。



 「小法師の顔を()く時はの、ばあさんの笑った顔を思い(えが)くといい。ほら、ばあさんの笑顔を見るとな、いつの間にか心がほっこり和むじゃろう?
 この小法師を手に取った人の心も、きっと和ませてくれる。そう願い、一筆一筆、心を込めて描くんじゃ。
 ……おっと、これはばあさんには内緒じゃぞ?」



 それを聞いたとき、祖父の愛情の深さを感じた。
 子供心にも、じいちゃんはばあちゃんが大好きなんだなと分かった。
 祖父母はどんなときもお互いを信頼し、支えあう仲睦まじい夫婦だった。


 祖母のみどりは会津武士の娘だった。
 普段はいつも微笑んでいるようなおっとりした人だったが、しつけには厳しかった。

 祖父の九八は、もとは越後の農民の出ということだったが、どういう経緯(いきさつ)で武家の祖母と連れ添うことになったのかは知らない。
 たぶん斗南へ移る際に斗南藩士に取り立てられたというから、その時 縁づいたのだろう。
 仕事以外は小さいことにこだわらないおおらかな人で、いつも冗談を言って笑わせてくれた。


 喜ばしい報せとともに、ふいによみがえった亡き祖父母の思い出は、青年の心を懐かしくあたためた。

 小さな起きあがり小法師の顔を描き入れていた手を止め、窓から秋が近づく高い空を仰ぐと、青年は感慨深くつぶやいていた。



 「ああ……きっとこの報せを聞いて、空の上で喜んでるんじゃねえかな。
 じいちゃんも、ばあちゃんも……」










 ※宸翰(しんかん)……天子直筆の文書。

 ※御製(ぎょせい)……天皇•皇族の作った詩文や和歌。

 ※艱難辛苦(かんなんしんく)……困難にあって苦しみ悩むこと。


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