九八が私を抱え直し、執り成すように言った。
「さあさ、もうすぐ着きますで、先を急ぎやしょう!
その話は落ち着いてから、明日にでもなさればよろしいじゃねぇですか!」
「そうだな。主水さま、まいりましょう」
九八の言葉に金吾さまが促すと、主水叔父さまも黙ってうなずき、再び歩き出す。
そうして夜が深みを増すなか、ようやく家へ着いた。
雪の重みにかろうじて耐えている頼りない長屋だ。
昨年末の大雪で長屋全体が大きく歪み、おかげで引き戸が開きづらかった。あちこちに隙間も出来ているため、長屋からは微かな明かりが漏れ出ている。
主水叔父さまが入口の引き戸を力任せに開けた。
「いま戻ったぞ」
家の中へ向けて告げると、心配して休むことなく待っていたみどり姉さまと“なを”さまが、主人の帰りを知って表情を緩めると、九八の背から下ろされた私に勢いよく取り付いた。
「ああ……良かった!さより、あんたって子は……!みんながどれほど心配したことか……っ‼︎ 」
みどり姉さまは私を抱きしめ、今にも泣きそうな声を出す。なをさまもそばで安堵の笑みを浮かべていた。
「おふたりには、ご心配、おかけしました……」
「本当よ!身を売るなんて……!なんて馬鹿なこと考えるの!あんたがそんなことまでしなくていいの!」
「みどり姉さま……」
自分でもそんなつもりはなかったけれど、段取られるまま、男に身を委ねてしまおうとしたのも事実。
「もっと自分を大切になさい!」
叱りながら、張り詰めていたものがプツリと切れたように、みどり姉さまは大泣きしていた。
私は家族のためならこの身はどうなっても構わないと思っていた。けれど、そう思い身を捨てることこそ、家族を悲しませる一番のことなのだと思い知った。
幸せや欲望は、誰かの犠牲の上に成り立っている。
すべての人が平等に、幸せになれることなんてない。
人の価値観はそれぞれで、誰かの幸せの裏で、必ず泣いてる誰かがいる。
それが世の理なのだから仕方ない。
だから自分が幸せなら、他人のことなんて気にしなくていいのに。
誰よりも自分の幸せを、真っ先に考えたらいいのに。
そうしてる人は、たくさんいるわ?
ああでも、どうして。なんで私のまわりには、そんなふうに思わない人達ばかりなのかしら。
みな、自分が食べるだけで精一杯の生活を必死で生きているのに。それでもお椀一杯分の食事を分け与える心を誰も失ってはいない。
こんな私なんかの幸せを、願わなくてもいいのに。
みんなそれぞれ、より大切に思う人がいるはずでしょう?私だってそこまで考えられる余裕なんてないわ?
それなのに。
「なんで……私のことなんか―――」
そんな私の考えなんてとっくに見越しているのか、みどり姉さまは泣きながら笑った。
「馬鹿ね。ひとりでも欠けたら、幸せになんてなれないの。人はひとりでは決して幸せになんかなれない。
まわりが幸せであればこそ、自分も幸せと感じるの。
それが家族というものでしょう?」
だから―――ここはこんなにも、あたたかい。
熱い涙がこぼれる。ああ、そうね。
それは喜代美も源太もそうだった。
いつもまわりの幸せを願う、博愛の精神。
私もいつも願うわ。家族の幸せを。
まわりにいる、皆の幸せを。
みどり姉さまの温かな身体をギュッと抱きしめ返す。
「ありがとう―――それから、ごめんなさい……」
少しでも温まるよう、なをさまが皆に白湯を振る舞ってくれた。温かな飲み物を口に含むと、家に帰ってきた安心感が広がる。
少し休んでから歪んだ戸口の外に出て、主水叔父さまと九八が金吾さまを見送る。九八が心配そうに声をかけた。
「本当にお帰りになられるんで?今夜は泊まっていかれたらよろしいじゃねえですか」
その言葉に、疲れた様子を見せることなく金吾さまは笑って首を振った。
「母もトシも俺の身を案じ、起きて待っていようからの。早く帰って安心させてやりたいのだ」
主水叔父さまは金吾さまに向けて深く頭を下げた。
「金吾どの、礼を申す。わが家の問題にここまで付き合っていただき感謝する」
「なんの。家族を思う気持ちは、みな同じです」
「奥さまによろしくお伝えくだせえ!それからえつ子さまにも!」
金吾さまは照れたように笑うと、軽く一礼して、家にひとつしかない提灯を手に今来た道を戻っていった。
締まり切れてない戸や窓の隙間から、冬の凍てつく空気が容赦なく家の中に流れ込む。煎餅布団や茣蓙をかき集めて床を作り、家族みなで暖をとるためくっつき合って眠りにつくなか、私は心の中で決めていた。
仕事を探す。身を落とす以外なら何でもやる。
私も家族を幸せにしたい。
少しでもお金を稼いで、家族の役に立ちたい。
みんなが私の幸せを願ってくれたように、私も家族の幸せな顔が見たい。だからがんばろう。
そんな決意を胸に秘めていたのに。
それからしばらくして、私は体調を崩した。
どうやら胃の病に罹ったらしく、胃のあたりがいつも気持ち悪い。お粥ひと口でさえ受けつけず、すぐ戻してしまう。
日頃の栄養不足も祟り、私は見る間にやつれ、身体が弱り床から起き上がれなくなった。
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