この空を羽ばたく鳥のように。




 斗南藩士の懸命な努力にもかかわらず、この年の七月に、衝撃を与える出来事が起こる。


 廃藩置県である。


 明治四年七月十四日。明治政府は諸侯の地方統治から中央集権化を図るため、それまでの藩を廃止して府県に置きかえた。
 具体的な中身について「藩主は知事として従来の領地を守護させるが、土地や人民は国家のものであり、知事の私有ではない。知事と家臣も旧来の主従関係にない」とした。

 これにより、斗南藩は斗南県となった。

 「なんということだ」と山川は呻いた。
 藩が県になったとて、生活が成り立たないのは明白だった。これまで藩の責任者として、広沢とともに、斗南藩士の生きる道を必死に模索し続けてきた。
 藩を軌道に乗せるには、少なくとも十年はかかる。
 それをまだ立ち上げてから一年半と経っていない状態で消滅してしまうなんて。

 藩の財政としても生産性が確立できていないものを、これから主従関係を失った藩士達は、何の扶助もなく自力で生きていくしかないのだ。藩士からも不満の声があがった。

 何のために我々は、今まで艱難辛苦に耐えてきたのか。

 失意に暮れるなか、山川の要請を受けて松平容保公•喜徳公親子が東京から汽船で函館に行き、そこから下北半島へ船で渡り、七月二十日に田名部を訪れた。
 藩庁であった円通寺に大勢の人が集まり、旧藩主と家臣は再会を果たした。藩士達は涙に咽んだ。
 主君を迎える礼服もなく、皆みすぼらしい姿だった。
 容保公も、家臣達のあまりの貧しさを目の当たりにして涙を流した。

 それから容保公親子は、ひと月ほど田名部に滞在した。
 藩主だった者は、華族として東京に招集される。それによって家臣との絆を断ち切ろうとの新政府の考えがあったのかもしれない。
 かくして藩主容大公は、容保公とともに東京へ向かうこととなった。

 出発に際して容保公は容大公の名義で布告を出した。


 『この度、余ら東京に召され、永々汝らと艱苦を共にするを得ざるは、情において堪え難き候えども、公儀の思し召しあるところ、やむを得ざるところに候……』


 これを聞いた藩士達は、お互い抱き合って号泣した。
 もう君公が斗南へ戻ってくることはあるまい。
 これが最後の別れになるかもしれない。そのことが藩士達を絶望に追いやった。これからは、自分の力だけで生きてゆくほかないのだ。

 藩主親子が斗南の地を去ると、残された斗南人達は茫然自失とした。

 この地に住み続ける必要性を失った人達は、斗南の地を去っていった。会津の地へ帰る者、海を渡り北海道へ向かう者。しかし新しい土地へ移っても、会津へ帰ったとしても、生活ができる保証はどこにもなかった。

 指導者であった山川•永岡も、その後も明治政府へ向けて扶助を求め続けていたが、それもいずれ廃止されると、やがて斗南を出て東京へ向かった。
 広沢だけがこの地に留まり、病人を抱えて移住できない斗南人のために仕事を探して奔走した。

 広沢は、八戸藩大参事の太田(おおた)広城(ひろき)と弘前県•黒石県•八戸県•七戸県•斗南県の五つの県を合わせてひとつの大きな県とするよう考えた。
 そして説得のすえ、それが政府に受け入れられ、明治四年十月に青森県が誕生した。ここで「斗南」は完全に消えた。










 《三人のその後》

 •山川(やまかわ)(ひろし)は東京へ出た後も、生活に困窮する旧藩士達を家に居候させながら、明治政府に旧斗南藩士の救済を願い出ていたが、政府は動かなかった。会津人の処遇に憤り、永岡と政府転覆運動を画策するも、その矢先に土佐出身の(たに)干城(たてき)の推薦を受け、明治6年に陸軍に出仕することになる。

 その後 明治7年の佐賀の乱で、左腕に重傷を負いながらも戦い、その軍功で陸軍歩兵中佐へ昇進。
 明治10年の西南戦争では、山川は恩人の谷を救うべく、西郷軍に包囲されていた熊本城の救援に当たった。
 明治13年、陸軍歩兵大佐に進級。
 高等師範学校長などを務めながら明治19年に陸軍少将へ進級。明治23年には貴族院議員に選ばれた。
 明治31年、男爵に叙せられる。同年2月4日死去。享年54。墓は青山霊園にある。

 山川の弟妹もまた有名で、弟の健次郎はアメリカのエール大学で物理学を学び、のちに東京帝国大学などの総長を務め、学界•教育界に確固たる地位を築いた。
 浩が汚名返上のため、京都時代の会津藩について草稿したとされる『京都守護職始末』を、亡き兄から引き継ぎ世に送り出したのも健次郎である。

 妹の捨松は日本最初の女子留学生として、津田梅子らとともに約12年間アメリカで過ごした。帰国後は薩摩出身•大山巌の妻となり、鹿鳴館の華と謳われた。
 看護師教育、女子教育の支援を行っている。



 •永岡(ながおか)久茂(ひさしげ)は、廃藩置県後、官職である青森県の田名部支庁長を務めるが、ほどなく職を辞して上京する。そこで薩摩人の海老原(えびはら)(ぼく)らと「評論新聞」の発刊したが、まもなく発行禁止とされる。その後も永岡は「中外評論」や「江湖評論」などを発刊して、言論による反政府運動を展開していく。旧士族の処遇に不満があった長州人•前原一誠と通じて蜂起を画策。

 明治9年10月。神風連の乱、秋月の乱に続き、萩で乱を起こした前原と東西呼応するべく、船で千葉へ向かい県庁を襲撃しようとした永岡一行は、東京思案橋で密告を受けた警官と格闘したすえ、逃亡するが捕縛される(思案橋事件)。
 永岡はそこで仲間から誤って腰を斬られ、その傷がもとで翌明治10年2月12日獄死する。享年38。今戸の稲福寺に葬られたとあるが、現在、墓は不明とされている。



 •広沢(ひろさわ)安任(やすとう)は廃藩置県後も留まり、三沢地区にて日本最初の洋式牧場を作る。もともと南部藩の治世から馬産が盛んだったこともあり、会津人が生き残る道は牧畜にあると考えた。広沢はつてを頼り、太田広城など共同出資者を募った。その後、外国人ふたりを雇い「開牧社」を開設。三沢地区は開拓地となっていたので、そこへ移住した会津人も広沢を手伝い、地元の有力者も協力した。のちに「広沢牧場」と呼ばれるようになった牧場経営は着々と進み、下北の地に一大牧場を築いた。それは下北に残る会津人の希望だった。
 明治21年に東京に広沢牧場出張所を設けるが、明治24年2月、東京でインフルエンザに罹り死去した。享年62。