この空を羽ばたく鳥のように。




 峠の茶屋で休憩となり、銘々(めいめい)に腰を落ち着け、しばし足の疲れを癒した。

 この峠に茶屋は二軒あったが、店の中に収まりきらず、峠の前後には、旧会津藩士の家族である婦女子や老人で溢れかえっていた。

 斗南へ移住するため、大勢の藩士家族がまとまって旅立っていたからだ。


 今回の便の人数は百六十三人。それを約五十人ずつの組に分け、各組に取締りの藩士がひとり付いて引率していた。私達もその内の一組の中にいた。

 各謹慎所に居た藩士達は、移住する前に先祖への墓参りや、知人への挨拶のために会津へ戻ることを希望しなければ、そのまま謹慎場所から斗南へ向かうことになっていた。

 高田で謹慎していた主水叔父さまも、先に斗南へ向かったはず。当主を失った私達は、主水叔父さまのもとへ身を寄せるしかない。斗南で無事に再会できることが、私達家族の望みだった。



 それまではずっと、おたかの村に住んでいた。
 けれどもあれから、おたかの村も戦後すぐに起こったヤーヤー一揆の影響を受け、肝煎の藤林さんの屋敷にも農民達が押しかけた。

 彼らは女子供に乱暴することはなかったので、私達が(おび)えて隠れていた離れ屋は手を出されず無事だった。
 しかし母屋は荒らされ、書類などを焼かれたことは他の村と変わらなかった。

 母屋を修復するあいだ、無傷で残った離れ屋に藤林さん家族が住むことになったので、私達は出て行かざるを得なくなった。

 住むところが無くなり困り果てていたところ、藤林さんの計らいで、私達は村外れの朽ちかけた空き家を借りることができた。

 多吉やおたかにも手伝ってもらい、空き家を修理して、九八と助四郎と共に住み始めた。
 喜代美が可愛がっていた猫の虎鉄も、源太が預けた農家から引き取ってきた。

 そうして皆で、家族のように助け合って暮らした。

 九八と助四郎は、源太に恩義を感じていたためか、私達家族を心配し、故郷へ帰らず世話を続けてくれた。
 けれど斗南へ移住する運びとなり、私達は今後のことを話し合った。

 九八は私達と一緒に斗南へ行くことを決めてくれた。
 「源太さまの分まで、津川家に尽くすと心に決めたんです」と、自らの決意を打ち明けてくれた。有り難いことだった。

 助四郎は村に残ると言った。すでにおたかと恋仲になっている。彼はおたかの兄の多吉に懇願し、嫁にもらうことを許してもらったばかりだ。
 ならばと、虎鉄は助四郎とおたかに預けることにした。残念だけど、とても斗南まで連れていけないから。

 助四郎はいずれ、おたかを伴い越後の故郷に帰るつもりだと言う。それを聞いた九八は、故郷へ帰ったら勘吾の死と、自分はもう村へ戻らないことを伝えてほしいと告げた。

 そうして出発までに、お世話になった方がたのところへお別れの挨拶に出向き、父上と源太が埋葬された場所や、先祖代々の墓所である高厳寺などを参拝してまわった。


 喜代美はとうとう、帰ってこなかった。


 九八や助四郎を伴い、白虎士中二番隊が戦ったとされる戸ノ口原へ、喜代美の手掛かりがないかと探し歩いたが、それらしい物を見つけることは出来なかった。

 家族は「喜代美はもう死んだのだ」と、あきらめた。
 けれど私は、どうしても あきらめきれなかった。痕跡がないのは生きている証拠だと信じた。
 どこかで喜代美がふらりと現れるんじゃないかと、その姿をいつも探し求めてしまう自分がいた。


 弁天山(飯盛山)には、若松取締りとして会津に残留していた藩士達が作った、白虎隊士達の墓があるという。戸ノ口原から滝沢峠までのあいだで自刃もしくは戦死した白虎隊士の遺骸をまとめて、民政局から許可を得て埋葬したというのだ。

 私達も喜代美が含まれているかもしれないその墓に、墓参してから旅路に出た。



 私達は少しずつ歩き出している。

 大切な人たちの死を、

 戦争の傷痕と悲しみを乗り越えて。

 新しい生活に、希望と不安と寂しさを胸に秘めて。






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