その晩のことでございやした。日没まで戦の緊張が続き、ヘトヘトになって割り当てられた民家の空き家で、他の兵士の方がたと寒さを凌いでいた時でございやす。
源太さまはご自身のことに構われず、お年を召した津川さまをお労りになり、細やかにお世話されておいででした。兵糧方からもらってきた握り飯を運び、傷があれば手当をなさり、疲れた足をさする姿は、わしから見れば本当に微笑ましい、親を労る孝行息子のように見えやした。
それでつい、わしは考えなしに申してしまったのです。
『まるで本当の親子のようでございやすねぇ、津川さま。戦が終わりやしたら、源太さまをさよりお嬢さまのお婿に迎えられたらどうですかあ?きっと源太さまなら、ご立派なご当主になってくださると思いやすよお?』
「………!」
それを聞いた私は思わず両手で口もとを覆う。もちろん母上とみどり姉さまも同じように驚き、思ったことだろう。
九八はなんてバカなことを申したのかと。
そんなことできるはずがない。門閥を重んじる武家社会において、上士の家督を軽輩の者に継がせるなど、しかも自分に仕える奉公人を、次の当主に据えるだなんて。
もちろん絶対にできないという訳ではない。
どうしてもと強く望むならばあらゆる手段はあるだろう。しかし世間体を気にすれば、普通ならありえない話だ。
それに九八が知らないだけで、次期当主はもう喜代美と決まっている。九八は源太の気持ちを充分承知していて、源太を思うあまりそう進言してしまったのだろう。
しかし悪気はなくとも、父上にとってそれは侮辱以外の何ものでもなかったはず。
私達の様子を見て、九八は乾いた笑みを浮かべた。
「やっぱりわしはとんでもねぇことを申してしまったんですね」
「九八、あのね」
説明しようとする私に向けて、九八は首を振った。
「わかっておりやす。お武家さまの決まり事でございやしょう?あの時も、おふたりのあいだにヒリつくような気を感じやした。源太さまのお顔は緊張し、津川さまは険しい表情をなさいやした」
暗い表情で九八は話を続けた。
――――『いきなり何を申すのだ九八。それは旦那さまがお決めになること。お前が口を挟むことではない。僭越が過ぎるぞ』
めずらしく源太さまは声に怒気を孕ませておっしゃいやした。
まずい、余計なことを言ったと気づいた時には、津川さまから離れた源太さまが両手をつかえて深く頭を下げておりやした。
『旦那さま、どうかお許しください。九八はこのような性分にてけして他意はございませぬ。あとできつく叱りつけておきますゆえ、先ほどの言は戯れ言とご放念いただきますようお願い申し上げます』
『げ、源太さま……』
『何をしておる、お前も旦那さまにお詫び申すのだ』
『へっへぇ!もっ申し訳ございやせん!』
民家で休む他の兵士の方がたも何事かと注視するなか、頭を下げたままの源太さまに強く言われ、わしもとにかくひれ伏して謝りやした。
けんど津川さまは不機嫌ともとれる声音でおっしゃいやした。
『源太よ。今までのお前の働きは認めておるつもりじゃ。家族のことも、身を粉にしてよく尽くしてくれたと感謝しておる。
お前がまことの忠義者だと信じたからこそ、さよりへの想いを告げられたあとも側に置き続け、出陣のおりふたりきりになることを許したのじゃ』
『旦那さま……』
『じゃがわしは、家もさよりもお前にくれてやるつもりはない。
お前の身分では我が家格に到底及ばぬ。我が家は戦国の世にかの加藤清正公に仕えた一族であることに誇りを持っておる。その跡を継ぐには、喜代美のようにそれなりの者でなくてはならぬ。
気に入られたいがために甲斐がいしく世話をやき、九八を使いその気にさせようなどと、姑息な真似をしても無駄なことじゃ。
さようなこと万に一つもない。分不相応なことを夢見るものではないぞ』
「………!」
父上が許すはずがないことは容易に想像できる。
けれどあんなにも尽くしてくれた源太に対して、まさか父上がそんな厳しいことをおっしゃるなんて。
あまりにもひどい申しように衝撃を受けた。
源太はひどく傷ついたに違いない。今まで尽くしてきた真心を、野心のためと疑われた落胆は大きい。
彼の気持ちを思うと胸が痛んだ。
「奥さまや皆さまがたの手前、こんなことを申しては何ですが、あの時ばかりは津川さまに掴みかかってやろうと思いやしたよ」
「まあ……!」と、母上は眉をひそめたが、それ以上は誰も何も言わなかった。
源太の本心を疑う者はいない。長い付き合いの中で、彼の誠実な人柄に偽りがないことくらい誰もが知っている。
だからこそなぜ父上がそのように仰せになったのか、皆それを訝しんだ。
――――あまりのことに、わしは源太さまを窺い見やした。
源太さまのつかえた両手が無念そうに握られるのに気づいて、思わず口を出したんです。
『津川さま!そいつぁあんまりです!源太さまだって……!』
『よせ。九八』
『ですが……!』
きつく握られた拳とは正反対の穏やかな声で、源太さまはわしを制しやした。
見ると、少し頭をあげてこちらに向けた源太さまのお顔は、驚いたことに優しく微笑まれているのです。
『よいのだ。……ありがとう』
『源太さま……!』
そのお顔が切なくて、わしのほうが泣きたくなりやしたよ。
侍であっても、身分の縛りにどうにもならず苦しんでる。
才覚があっても身分が低いってだけで認めてもらえねえ。
そんな仕打ちを受けても、笑っていられるなんて。
けんど源太さまは背筋を正すと津川さまに向き直り、何でもないことのようにおっしゃったんです。
『もとより、承知しております』
源太さまの口もとには、穏やかな笑みが広がっていやした。
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