時が惜しい。こうしている間に、集合時刻が迫ってくる。
九八だって支度を終えているかもしれない。
皆も待ってるかもしれない。
それが分かっているのに、源太は私が泣きやんで顔をあげるまで抱きしめて待っていてくれた。
それは以前の男女の情のものではなく、あたかも兄が妹をいたわる抱擁のようだった。
源太の胸の中はあたたかくて安心するーーーその優しさにいつまでも甘えてはいけないと分かっているのに。
突如 小田山方面から大きな喊声と激しい銃撃音が聞こえ、現実に引き戻されるように顔をあげた。
源太を見上げると、彼も表情を厳しく変えて東南の方角を見つめている。
「どうやら始まったようです」
総攻撃に向けての対応策のひとつとして、暁七ツのうちに会津軍が小田山を奪取するため、兵三百人ほどで攻撃を仕掛けたというのだ。
「ありがとう源太。もう大丈夫。ひとりで立てるから」
いつまでもこうしてはいられない。
グイッと涙を乱暴に拭いてしっかりした声で言うと、源太はこちらを向き、短くうなずいた。
彼の手が身体から離れると、一抹の寂しさを感じる。
それでも支度を再開した。小田山から聞こえてくる銃撃戦の音に焦りを感じつつ、はずした胴丸をつけ直し、手拭いを細長く折りたたんで縫い合わせた鉢巻きを額に結ぶと、最後に大刀を源太に手渡す。
大刀を腰に差し、すっかり身支度を整えると源太は頭を下げた。
「数々のご厚志、感謝いたします」
顔を上げると凛々しいその姿に惚れぼれするようだった。
源太に喜代美のような美麗さはないが、男振りの良さでは引けを取らない。これならたとえご老公さまの御前に召されても恥ずかしくないわ。
「よかった……私でも役に立てて」
「充分過ぎるほどですよ」
そう言って源太は明るく笑ったが、すぐに笑みを消して私を真っ直ぐに見つめた。
「お嬢さま。これから城内は、敵の猛攻撃にさらされましょう。今まで以上に危険がともないます」
「……うん」
小田山から聞こえる轟音に、身の引き締まる思いがした。
あと数刻もすれば、あの砲撃がこちらに集中するんだ。
「どんな困難があっても、決してあきらめず、生き抜いて喜代美さまをお待ちください。喜代美さまが必ず戻ると信じて。そのお心が揺らげばお命に関わります」
「うん。分かってる」
真摯な言葉を心肝に刻む。くじけてはいけない。
これからやって来る総攻撃に、守ってくれる人はいない。
喜代美も源太もそばにいないのだから。
「絶対あきらめたりしない。城で待つわ。喜代美と源太が帰ってくるのを」
まっすぐ見つめ返して答えてから、ふと思う。
ふたりとも無事に帰ってきてほしい。
その気持ちに偽りはないけれど、喜代美が帰ってきて源太と私のことを知ったらどうだろう。ひどく失望するんじゃないだろうか。
以前見た夢の中で、喜代美は私を責めたりしなかった。
でもあれは夢。現ではない。
ただ私がそうあってほしいと望んだだけ。
現実の喜代美は、自分がいないあいだ、私の心を支えてくれた源太をどう思うか。
源太も……喜代美のことをどう思っているんだろう。
私の夫となり、当主となった喜代美に変わらず仕えてくれるだろうか。
そう考えると不安になる。
私達は以前のように振る舞えるのだろうか。
(いやいや、今は有事だ。そんなことを考えている場合じゃない)
今はふたりが無事に帰ってくることだけ考えればいい。
それから父上と九八も。
戻って来てくれさえすれば、あとはどうとでもなる。
あわてて頭を振る私を見て、源太は表情を和らげた。
「お嬢さま。私は喜代美さまもとても好きでございましたよ」
「え……」
突然の話に源太を窺い見る。私の心を見透かすように彼は続けた。
「喜代美さまの素直な心根や、他の人を思い遣り労わる優しさ。それは人として見倣うべきものでした。
そして何より貴女さまを想う気持ちは、けして澱むことのない清流のようでした」
源太は眼差しを優しく滲ませ、喜代美のことを語る。
「私は喜代美さまから学びました。我欲を取ることなく、まわりの者の万福を願う慈悲の心を。
たとえ自身が与えられなくとも、愛する者の幸せを真っ先に考える強い想いを。
私は本心から、喜代美さまとお嬢さまが夫婦となり、津川家を盛り立てる日が来るのを待ち望んでおりました」
「源太……」
源太の言葉に偽りはない。それは表情を見れば分かる。
その目に再び物哀しさが浮かび、源太は固く目を閉じた。
喜代美が出陣する前に祝言をあげることができていれば。
それは本当に源太の悦びになったのかもしれない。
そっと源太の頬に手を添えた。
「ありがとう……ごめんね」
「謝らないでください。お詫びしなければならぬのは私のほうです」
源太は頬に触れる私の手に自分の手を重ね、愛しむように頬を擦り寄せると掌に口づけた。
ドキンと胸が鳴る。唇を離した手をほどくと、照れることなく源太はまっすぐに私を見つめた。
「お嬢さま。生きてください。たとえ何が起ころうとも、生き続ける強さをお持ちください」
「……源太もね。最後の最後まであきらめないで。籠城した日のように、必ず戻ると約束して」
源太はうなずいてくれなかった。ただ優しく笑った。
「私は、己の務めを果たすまでです」
約束してくれなかったことに不安を感じながら、深くお辞儀する源太を見つめる。
「身支度を整えていただいたこの時間は、まこと幸甚でございました。人生が報われた気がいたします。
さよりお嬢さま、ありがとうございました」
「あ……」
私が言葉を発する前に、源太は障子を開けて部屋を出た。
※暁七ツ……江戸時代の時刻は不定時法なので季節によって異なる。秋〜冬はだいたい午前4時半〜7時のあいだ。
※幸甚……この上なくありがたいと感じること。至上の幸せ。
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