この空を羽ばたく鳥のように。





毎朝、井戸から水を汲んできてくれるのは源太だった。



生活するのに欠かせない水。

本丸には五ヶ所 水の出る井戸があったが、城内には数千人もの籠城者がいたため、常に水不足に悩み、手を洗うこともままならなかった。

長局から一番近い井戸でも一町(約109m)余りも距離がある。しかも城内の井戸は家庭用とは違い、大きく深いものだったので、女の膂力(りょりょく)では水を汲みあげるのも重労働だった。

だから毎朝 源太が汲んで長局まで運んでくれる手桶一杯分の水はとてもありがたかった。




今日もいつもと変わらず、桶を手にした源太が縁側に姿を見せてくれると思っていたのに。

彼は現れず、代わりに汗をかきかき井戸の水を運んできてくれたのは、源太が倒した野盗のひとりであるホクロ男だった。

ホクロ男は 一昨日(おとつい)私達を襲った時の荒々しさなどすっかり抜けていて、おとなしく従順な様子で頭を下げると名を九八(きゅうはち)と名乗った。



「え……どうしてあなたが?源太は?」



源太が来ないことに、私だけでなく母上やみどり姉さまも驚く。不安を覚えて縁側から庭に降り立ち、九八に近寄って訊ねると、水桶を下ろした彼は(ひたい)から流れる汗を着物の袖で拭いながら、歯切れの悪い口調で話した。



「なんだかよう知りませんが、源太さまが昨夜遅くにわしらのもとに現われまして、今日からこちらのご家族のお世話をしてほしいと頼まれましてなぁ」


「それで 源太は?」


「ご主人の津川さまより呼び出されまして、身のまわりのお世話を仰せつかったようでして。
そんでこちらのお世話ができなくなったとか」





源太が籠城戦の初日に父上に暇乞いをして、決死隊として出陣し負傷してからは、父上のお世話は城内で雇った小者にさせていたはずだ。

傷が治って源太が津川家の奉公に復帰したあとも、ご自分のお世話はそのまま小者に任せ、家族のためにとこちらに寄こしてくれていたのに。



(それがなぜ、今頃になって……)



考えられることは、ひとつしかない。


源太が昨夜のことを父上に報告したんだ。
自分ひとりのせいにして。



(源太は無事なのだろうか)



不安を抑えて、九八にゆっくり確認する。



「源太は、父上のお世話をしているのね?」

「はあ、まあ、そういう話です」



九八は間の抜けた返事をした。
望む返答でないことに苛立ちを感じ、口調を強める。



「どうなの?はっきり答えなさい!源太はちゃんと父上のところにいるのね⁉︎ 」



明確な答えが聞きたくて詰めよると、九八は困ったようにオロオロした。源太が父上のところへ向かったということしか分からないらしい。



苛立ちと焦りが全身を駆けめぐる。


今この時に、源太が父上に処断されてるとか、役目を解かれて城外に追い出されていたらどうしよう。


そう考えたら、源太の安否が心配になり、居ても立ってもいられなくなった。



「母上!私っ、父上のところへ行って参ります!」

「え……さより⁉︎」



驚く母上やみどり姉さまに言うやいなや、もう身体が勝手に動いて駆け出していた。
すると、それまで私に詰めよられてオロオロするばかりだった九八が突然大声をあげた。



「いけません!お嬢さま、行っちゃあいけませんや!」



えっ、と足を止めて、振り返って九八を見る。



「どういうこと?」

「お父上さまのもとへ行っちゃあなりません」

「……っ!なんでよ?どうして⁉︎ 」



怒りが爆発しそうになるのを何とか抑えながら訊くと、オドオドと怯えつつ九八は言った。



「わしにはようわかりませんが、とにかく源太さまにきつく言われたです」


「源太に……⁉︎」


「はい、主人(あるじ)である津川さまのご命令だとかで。特にお嬢さまは、どうしてもご用事があるのでしたら、この九八に(ことづ)けるようにと仰せでした」


「なんですってぇ⁉︎」



怒りが頂点に達して声を荒らげた。
完全に源太に会うことを阻まれている。
誰に?……父上に?源太に?


九八は私の剣幕に恐れをなして畏縮している。
見かねたみどり姉さまが声をかけた。



「さより、さっきからどうしたの。なぜそんなに怒る必要があるの?」


「……!それは……別に」



言えない。昨夜のことは。

源太との約束もあるし。それに私が言ったら、自分だけのせいにして事を収めようとしている源太の思いに水を差してしまう。



だけど―――だったら なんで……!


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