石筵口母成峠を打ち破り、猪苗代、戸ノ口原を経由し、滝沢峠から城下になだれ込んだ約三千もの西軍は、会津軍の必死の抵抗をものともせずにお城の北出丸と西出丸に迫り、攻撃を加えた。
対する城内の残留兵士も、持ち寄った火縄銃や和銃を掻き集め、老兵・少年兵ともども城内には入れさせぬと果敢に防戦した。
その一方で『敵、城下に迫る』の報は、国境で戦っていた各隊へ次々ともたらされ、味方の兵士を驚愕させた。
これに驚いた各隊は退却を余儀なくされ、国境にわずかな兵を残し急ぎ城へ向かうこととなる。
とは云っても、車や列車などの交通手段もない時代、城へ向かうにはもっぱら自分の脚(あし)に頼るのみ。その日のうちに城へ戻るのは困難であった。
国境に散った精鋭部隊が城へ戻るまで。
それまでは何とか持ちこたえようと、城に残る兵士達は皆必死で戦った。
――――本丸で働く私達は、あとから耳にしたことだが、北出丸は善戦していた。
兵が少ないなか、ここに配置されたのは老人組の足軽玄武隊だった。
城の玄関口でもある大手門を守るための北出丸は、ぐるりと濠(ほり)をめぐらせた石垣の上に白壁塀が連なり、堅固な守りを誇る砦(とりで)だ。
城へ進入しようとする西軍の兵士は大手門に殺到するが、まわりを囲む白壁に造られた銃眼から狙い撃ちにされた。
遮蔽物の何もない濠の外で、手を打つ間もなく西軍の兵士達は隊長をはじめ次々と斃(たお)され、とても城門に近づけなかった。
火縄銃や旧式の銃でも、敵との距離が間近だったため功を奏したのだ。
その指示にあたったのが、砲術家である山本家のお八重さまだった。
お八重さまはこの日、城に入って戦う決意を定め、亡き弟君の遺服を身に纏い、スペンサー銃という元込め七連発銃を手に入城していた。
彼女は入城するとすぐさま北出丸へ向かい、「女のくせに」と反発を受けながらも兵の中にまじり、自ら七連発銃を手にして西軍を迎え撃った。
苦戦に陥った西軍は、銃眼の向こうに潜む会津兵を白壁もろとも破砕しようと、大砲を最前線まで持ち出してくるが、やはり遮蔽物のない場所でその身をさらした指揮官が銃弾を受けて転倒、大砲は家老屋敷の陰まで後退せざるを得なくなる。
そのあいだに、お八重さまも城内とっておきの四斤砲を運び出し、北出丸の白壁下の石を濠へ突き落として大穴をあけ、そこに大砲を据え付け、空いた隙間には土砂を詰めた鎧櫃を防壁にして、そこから砲弾を浴びせて西軍を苦しめた。
会津子女の意地を見せたお八重さまの活躍。
それを聞いた女達は、そろって喝采をあげた。
※善戦(ぜんせん)……全力を尽くしてよく戦うこと。
※銃眼(じゅうがん)……敵を銃撃し、または見張るために、防壁に設けた小さいあな。狭間。
※功を奏する(こうをそうする)……成功する。
※四斤砲(よんきんほう)……フランス政府から幕府陸軍へ贈呈された青銅製前装式施条砲で、その後、国産化に成功。
斤とは重さの単位を表し、全備重量4㎏の砲弾を発射する大砲を意味する。弾丸は筍翼弾を用いる。
分解搬送ができ、道路事情の悪かった幕末当時の日本でも移動が容易だったため、戊辰戦争から西南戦争まで長期間にわたって使用された。
※鎧櫃(よろいびつ)……鎧を入れるための大形の箱。ふたが上に開く。
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