私は自分の手を帯ではなく袂に入れた。
そこから、用意しておいた匂い袋をふたつ取り出す。
紫緞子の小さな匂い袋。
それを八郎さまに差し出した。
「これは……」
「おふたりにお渡ししようと存じまして、私がこしらえたものでございます。どうかこちらをお持ちください」
八郎さまはふたつのうちのひとつを手に取ると、鼻先に近づける。
「菖蒲の香りですね」
「はい。茎と根の部分を乾燥させて作りました。
菖蒲は“勝負”と“尚武”をかけております。
古の武将達も、戦のおりにはその武運を祈り、兜の中に菖蒲の香りを焚きしめて出陣したそうです。ですからこれを……きっとご武運が良くなりましょう」
八郎さまは小さな匂い袋を見つめて頬を緩めた。
「……懐かしい。幼い頃、毎年端午の節句には 母が菖蒲湯を用意してくれました。
さわやかな匂いに包まれて、私や八三郎などはよく風呂の中でその茎や葉を用いて遊んだものです」
遠い昔を思い出し、八郎さまは喜代美を懐かしく「八三郎」と呼ぶ。
「あの頃はよかった……。誰を嫉むこともなく、己に失望することもなかった。
ただただ兄弟や友人達と遊び、競う毎日が楽しかった。
何も知らないまま、ずっとあのままでいられたら……どんなに幸せだったことでしょうね」
遠い目をして、八郎さまはつぶやく。
※緞子……絹の練り糸で織った紋織物。
※尚武……武道・武勇を尊ぶこと。
※嫉む……他人の幸運や長所をうらやみ、にくむ。ねたむ。
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