今まで一度も履かなかったこのヒールをわざわざ東京にまで持ってきたのには、我が家の切実な事情があった。
会社から引っ越し手当は出たものの、それはあくまでも私ひとり分の引っ越し費用。母親も含め家ごと引っ越すとなると、その費用は支給された金額の数倍になってしまう。
おまけに秘書課には制服がなく、自前のスーツが必要なのだと出発直前に山辺部長に言われ、慌てて数着のスーツとブラウスを購入した。
当初予定していたよりもかなり予算をオーバーしてしまったので、ヒールは今有るモノでいいだろうと思ってたいら、母親が第一印象は足元で決まる。なんて言い出し、せめて初日は新しいヒールで出社しろとこのヒールを無理やりキャリーバッグに押し込んできたんだ。
まぁね、秘書になれば、役職者に同行して様々な企業のお偉いさんに会うことになるだろうし、安っぽい格好をしていたらバイオコーポレーションの品格が問われかねない。
並木主任からプレゼントされたヒールを履くのは、なんとなく抵抗があったけれど、仕方ないか……
割り切ってマンションを出た私を待ち受けていたのは、あの恐怖の満員電車。なんとか耐えしのぎ電車を降り改札を抜けると、出勤途中のサラリーマンに混じり、背筋を伸ばして歩き出す。
私が目指していたのは、駅から数分の高層ビルが立ち並ぶオフィス街。その中でもひと際目立つ円形のツインビル。これが、バイオコーポレーションの自社ビルだ。
後ろの棟は全国各地にある研究所を統括している本部が入っていて、大通りに面した手前の棟は、一階から五階までがテナントオフィス。六階から十階がバイオコーポレーションの本社になっている。



