「家族風呂って……ちょっと待ってください」

「いいから、来い」


問答無用で温泉の受付まで引っ張れて来たが、さすがに並木主任と一緒に温泉に入るのは抵抗がある。なので「お先にどうぞ」と声を掛けたのだけれど、異動を知ったおばあちゃんが並木主任の腕を掴んで放そうとしない。


「まだ来たばかりなのに、どうして急に転勤になるの? 前に温泉に来てくれてたバイオコーポレーションの社員の人は五年居たよ」


人それぞれだと説明しても興奮したおばあちゃんは納得せず、根負けした並木主任がおばあちゃんの肩を抱き待合室の籐の椅子に座る。そして私の方を向いて先に温泉に入ってこいと目配せした。


私も話しが長引きそうだと思っていたら、これ幸いと素直に頷き、待合室を出て家族風呂に向かう。


この温泉には何度も来ているけど、家族風呂に入るのは初めて。ネーミングからして狭いイメージだったが、意外に広くて驚いた。


先に体と髪を洗い温泉に浸かると、ヌルっとした感覚の柔らかいお湯が体の芯まで温めてくれる。


「はぁ~やっぱ、ここのお湯はいいなぁ~」


心地いい癒しの湯に何もかも忘れて目を閉じたのだけれど、やはり気になるのは、並木主任のこと。


明日、別れてしまったら、もう一生、並木主任と会うことはないんだ。それなら最後に思い切って一緒に温泉に入れば良かったかな……


なんて大胆なことを考えてたりして。でも現実に、今ここに並木主任が入って来たら、間違いなくお湯をぶっかけて出て行けって怒鳴るだろうな。


そんなことを思い大きく伸びをした時だった。湯気で霞む擦り硝子の引戸に人影が映ったような気がした。