僕には伯母がいる。名前はひな。僕を中学生まで育ててくれた人だ。
僕が生まれた理由と、ひなが僕を育てた理由は、そんなに大事なことじゃない。
僕がこれから生きていって、ひなが僕を育ててよかったと思うなら。
「一生会わないことだってできるんだよ」
僕の隣で電車に揺られながら、鷹生さんは心配そうに言った。
「僕はまだ子どもだから」
僕は近くに立つ若い女性の乗客にそわそわしながら答える。
ひぐらしの鳴く夏の終わりのことだった。
僕は鷹生さんに付き添ってもらって、前の担任の先生に会いに行く。
先生が僕に触れるのを拒んでから、一年が経とうとしていた。
背中を流れる汗の感触は、あまり心地よくない。でも夏が終わるまでは、みんなこれと付き合っている。
まぶしい太陽の中を歩いて、待ち合わせの喫茶店に入った。
先生は僕たちをみとめると立ち上がった。
まだ先生になって三年。でもそれだけじゃなく、先生は僕とそんなに年が変わらないくらい、幼く見える。
「郁の祖父です。今日は保護者として同席させてくださいね」
鷹生さんは先生に話しかけると、先生に座るように勧める。
僕が向かい側に座ると、先生と僕はココアを、鷹生さんはコーヒーを頼む。
飲み物の選び方とか、身に着けているクマのヘアピンだとか、先生は僕と似て子どもっぽい。
しばらく沈黙があった。僕は一年ぶりの先生が懐かしくて、つかのま何をしに来たのかも忘れていた。
「さよならを言いに来ました」
やがて僕はそう口にしたけど、自分で言っていて全然実感がなかった。
「僕を産んでくれた人と、東京で一緒に暮らすことになったんです。引っ越します」
話しながらじわっと実感がおいついてきた。
僕は桐人さんと暮らす。僕をいつも心配して体を壊すひなと、一度離れてみようと決めた。
戸惑いを顔に浮かべた先生に、僕は告げる。
「もう二度と先生と会うことはありません」
ひなは、先生は郁が好きだったんだよと言っていた。
それでも、ひなが傷ついたのはどうしても許せなかった。
先生が僕の体に触れようとしたことより、僕の心のまんなかを傷つけたのが嫌だった。
「僕は子どもだから、まだお母さんが一番大好きで、大事なんです」
きっと大人になったら、もっと賢い別れ方を知るのだろう。
今は、これがせいいっぱいだ。
「好きでした。さよなら」
僕の初恋は、そういう苦い終わり方だった。
帰り道、電車に揺られながら鷹生さんが教えてくれた。
「ひなが郁君の年だった頃を思い出したよ」
鷹生さんは苦笑して言う。
「ひなにはね、気になる男の子がいた。ちょうど日曜日だったから、バレンタインはその男の子も弟の斗真も、みんなでチョコレートを食べに行く約束になってたんだ」
ふいにぽつりと言葉を切る。
「でも、その少し前にお母さんが亡くなってね」
ガタンゴトンと、電車は揺れる。
「私が朝起きたら、ひなはチョコレートケーキを作っていた。ひなは斗真だけ送り出して、家に残っていた」
そのときを思い出したように、鷹生さんは目を伏せる。
「「一緒に食べようよ」と、言うんだ。「私、まだ子どもだから。お父さんが一番好きでいい」と」
見たことがないはずの中学生のひなの表情が、想像できた。
きっと僕がよく知っているあの表情だ。今にも泣きそうな顔で笑っていたんだろう。
「よかった。君がひなの子どもで」
僕を見やる柔らかいまなざしは、血がつながっていなくても、確かにひなのお父さんのものだった。
夏休みの終わりがけ、僕と桐人さんとお父さんの三人で、キャンプに出かけた。
「気をつけろよ。小さくてもナイフなんだからな」
「大丈夫だよ」
僕が薪木をナイフで割っていると、お父さんから何度目かの注意が入る。
「ぷっ」
「笑うなよ、桐人。あんな危なっかしい手つき、見てられるか」
「うるせえな。手は出さないって約束は守ってる」
桐人さんは笑いを噛み殺しながら、カレーの具材を切っていた。
お父さんは桐人さんの手元をのぞきこんで、今度は桐人さんに注文をつける。
「ざっくり切りすぎだろ。これ煮えるのか?」
「お前はいちいちうるせぇ!」
「痛ぇ! ギブギブ!」
桐人さんはお父さんの首に後ろから手を回してぎりぎりと締める。
こうして二人が一緒にいるところを見ると、僕の同級生がじゃれてるようにしか見えない。
今でも実感がないけど、かつて桐人さんは女性で、お父さんとの間に僕を産んだ。
お父さんは長い間、桐人さんと顔を合わせるのも避けていた。桐人さんが僕の学校行事に必ず出席するから、自分は顔を出さなかったくらいだ。
でも僕が桐人さんと暮らすと話したら、お父さんは言った。「俺も腹を決めるか」と。
「桐人、郁と三人でキャンプに行こう」。お父さんがどんな気持ちで桐人さんに電話したか、僕はまだわかっていない。
「美味いな、これ。桐人、料理できるって本当だったのか」
出来上がったカレーを食べて、お父さんは驚いていた。
「そうだよ。桐人さんはお菓子からおせちまで何でも作れるんだから」
「いや待て。おせちはひなの手伝いしかしたことないぞ」
気が付いたら僕は得意げな調子で返していて、桐人さんに笑われた。
お父さんは神妙にうなずいて言う。
「よかった。桐人、郁の食事はちゃんと頼むぞ。ジャンクフードばかり食わせるなよ」
「わかってるよ」
「本当か? ちょくちょく様子見に行くからな」
僕は口をへの字にしてそれを聞いていた。
お父さんが心配性で、僕の生活のいろんなことを気にしていたのは知っていた。
でも一緒に暮らしていなかったから、ひなとは大きな線を引いていた。
今、ふっと思う。お父さんは、やっぱり僕のお父さんだ。
離れて暮らしていたとしても、お父さんは僕から目を離したりはしない。僕はずっと守られている。
「郁は団体競技が好きじゃないんだから、無理にチームに入れようとするんじゃないぞ。好きなようにさせてやれ」
「知ってるよ。俺だって見てきたんだから」
お父さんは桐人さんに僕のことを事細かに言伝ていた。桐人さんは苦笑しながら、でもずっとそれを聞いていた。
食事の後、シートを敷いて星を見上げた。
他に明かりもないから、満天の夜空が広がっていた。
「斗真、俺にも」
「ん」
お父さんが体を起こしてたばこを吸いだして、桐人さんも一本もらう。
二人は実はヘビースモーカーなんだけど、ひなの前では吸わない。なぜかはよく知らない。
でも二人が顔を近づけて火を受け渡ししていると、なんとなくわかる気がする。
じりじりとたばこの先で火がくすぶる。息が触れるような近くで、つと二人の目が合う。
そういうとき、僕はどきっとする。二人とも、別の人のように見えるから。
大人の世界という言葉が頭をよぎる。僕が知らない世界に、二人はいるんだなと思う。
「郁はまだ見るな」
ふいにお父さんが僕の頭をつかんで顔を横向けさせる。
僕は文句を言いたい気持ちもあったけど、大人しく横を向く。
それを元に戻したのは、桐人さんの手だった。
「いいだろ、別に。俺はもうお前とはキスしないぞ」
「き、桐人。そういう話はやめとけ」
「そういう話を、そろそろ郁も知っておくべきなんだよ」
僕とよく似た顔立ち、けれど僕よりずっと色っぽいと思う桐人さんが、僕に告げる。
「俺たちの性とひなの性のこと。郁もわかっておかないとな」
移ろう満天の星の下、掠めるたばこの匂い。
その中で、桐人さんは言葉を浮かべた。
僕が生まれた理由と、ひなが僕を育てた理由は、そんなに大事なことじゃない。
僕がこれから生きていって、ひなが僕を育ててよかったと思うなら。
「一生会わないことだってできるんだよ」
僕の隣で電車に揺られながら、鷹生さんは心配そうに言った。
「僕はまだ子どもだから」
僕は近くに立つ若い女性の乗客にそわそわしながら答える。
ひぐらしの鳴く夏の終わりのことだった。
僕は鷹生さんに付き添ってもらって、前の担任の先生に会いに行く。
先生が僕に触れるのを拒んでから、一年が経とうとしていた。
背中を流れる汗の感触は、あまり心地よくない。でも夏が終わるまでは、みんなこれと付き合っている。
まぶしい太陽の中を歩いて、待ち合わせの喫茶店に入った。
先生は僕たちをみとめると立ち上がった。
まだ先生になって三年。でもそれだけじゃなく、先生は僕とそんなに年が変わらないくらい、幼く見える。
「郁の祖父です。今日は保護者として同席させてくださいね」
鷹生さんは先生に話しかけると、先生に座るように勧める。
僕が向かい側に座ると、先生と僕はココアを、鷹生さんはコーヒーを頼む。
飲み物の選び方とか、身に着けているクマのヘアピンだとか、先生は僕と似て子どもっぽい。
しばらく沈黙があった。僕は一年ぶりの先生が懐かしくて、つかのま何をしに来たのかも忘れていた。
「さよならを言いに来ました」
やがて僕はそう口にしたけど、自分で言っていて全然実感がなかった。
「僕を産んでくれた人と、東京で一緒に暮らすことになったんです。引っ越します」
話しながらじわっと実感がおいついてきた。
僕は桐人さんと暮らす。僕をいつも心配して体を壊すひなと、一度離れてみようと決めた。
戸惑いを顔に浮かべた先生に、僕は告げる。
「もう二度と先生と会うことはありません」
ひなは、先生は郁が好きだったんだよと言っていた。
それでも、ひなが傷ついたのはどうしても許せなかった。
先生が僕の体に触れようとしたことより、僕の心のまんなかを傷つけたのが嫌だった。
「僕は子どもだから、まだお母さんが一番大好きで、大事なんです」
きっと大人になったら、もっと賢い別れ方を知るのだろう。
今は、これがせいいっぱいだ。
「好きでした。さよなら」
僕の初恋は、そういう苦い終わり方だった。
帰り道、電車に揺られながら鷹生さんが教えてくれた。
「ひなが郁君の年だった頃を思い出したよ」
鷹生さんは苦笑して言う。
「ひなにはね、気になる男の子がいた。ちょうど日曜日だったから、バレンタインはその男の子も弟の斗真も、みんなでチョコレートを食べに行く約束になってたんだ」
ふいにぽつりと言葉を切る。
「でも、その少し前にお母さんが亡くなってね」
ガタンゴトンと、電車は揺れる。
「私が朝起きたら、ひなはチョコレートケーキを作っていた。ひなは斗真だけ送り出して、家に残っていた」
そのときを思い出したように、鷹生さんは目を伏せる。
「「一緒に食べようよ」と、言うんだ。「私、まだ子どもだから。お父さんが一番好きでいい」と」
見たことがないはずの中学生のひなの表情が、想像できた。
きっと僕がよく知っているあの表情だ。今にも泣きそうな顔で笑っていたんだろう。
「よかった。君がひなの子どもで」
僕を見やる柔らかいまなざしは、血がつながっていなくても、確かにひなのお父さんのものだった。
夏休みの終わりがけ、僕と桐人さんとお父さんの三人で、キャンプに出かけた。
「気をつけろよ。小さくてもナイフなんだからな」
「大丈夫だよ」
僕が薪木をナイフで割っていると、お父さんから何度目かの注意が入る。
「ぷっ」
「笑うなよ、桐人。あんな危なっかしい手つき、見てられるか」
「うるせえな。手は出さないって約束は守ってる」
桐人さんは笑いを噛み殺しながら、カレーの具材を切っていた。
お父さんは桐人さんの手元をのぞきこんで、今度は桐人さんに注文をつける。
「ざっくり切りすぎだろ。これ煮えるのか?」
「お前はいちいちうるせぇ!」
「痛ぇ! ギブギブ!」
桐人さんはお父さんの首に後ろから手を回してぎりぎりと締める。
こうして二人が一緒にいるところを見ると、僕の同級生がじゃれてるようにしか見えない。
今でも実感がないけど、かつて桐人さんは女性で、お父さんとの間に僕を産んだ。
お父さんは長い間、桐人さんと顔を合わせるのも避けていた。桐人さんが僕の学校行事に必ず出席するから、自分は顔を出さなかったくらいだ。
でも僕が桐人さんと暮らすと話したら、お父さんは言った。「俺も腹を決めるか」と。
「桐人、郁と三人でキャンプに行こう」。お父さんがどんな気持ちで桐人さんに電話したか、僕はまだわかっていない。
「美味いな、これ。桐人、料理できるって本当だったのか」
出来上がったカレーを食べて、お父さんは驚いていた。
「そうだよ。桐人さんはお菓子からおせちまで何でも作れるんだから」
「いや待て。おせちはひなの手伝いしかしたことないぞ」
気が付いたら僕は得意げな調子で返していて、桐人さんに笑われた。
お父さんは神妙にうなずいて言う。
「よかった。桐人、郁の食事はちゃんと頼むぞ。ジャンクフードばかり食わせるなよ」
「わかってるよ」
「本当か? ちょくちょく様子見に行くからな」
僕は口をへの字にしてそれを聞いていた。
お父さんが心配性で、僕の生活のいろんなことを気にしていたのは知っていた。
でも一緒に暮らしていなかったから、ひなとは大きな線を引いていた。
今、ふっと思う。お父さんは、やっぱり僕のお父さんだ。
離れて暮らしていたとしても、お父さんは僕から目を離したりはしない。僕はずっと守られている。
「郁は団体競技が好きじゃないんだから、無理にチームに入れようとするんじゃないぞ。好きなようにさせてやれ」
「知ってるよ。俺だって見てきたんだから」
お父さんは桐人さんに僕のことを事細かに言伝ていた。桐人さんは苦笑しながら、でもずっとそれを聞いていた。
食事の後、シートを敷いて星を見上げた。
他に明かりもないから、満天の夜空が広がっていた。
「斗真、俺にも」
「ん」
お父さんが体を起こしてたばこを吸いだして、桐人さんも一本もらう。
二人は実はヘビースモーカーなんだけど、ひなの前では吸わない。なぜかはよく知らない。
でも二人が顔を近づけて火を受け渡ししていると、なんとなくわかる気がする。
じりじりとたばこの先で火がくすぶる。息が触れるような近くで、つと二人の目が合う。
そういうとき、僕はどきっとする。二人とも、別の人のように見えるから。
大人の世界という言葉が頭をよぎる。僕が知らない世界に、二人はいるんだなと思う。
「郁はまだ見るな」
ふいにお父さんが僕の頭をつかんで顔を横向けさせる。
僕は文句を言いたい気持ちもあったけど、大人しく横を向く。
それを元に戻したのは、桐人さんの手だった。
「いいだろ、別に。俺はもうお前とはキスしないぞ」
「き、桐人。そういう話はやめとけ」
「そういう話を、そろそろ郁も知っておくべきなんだよ」
僕とよく似た顔立ち、けれど僕よりずっと色っぽいと思う桐人さんが、僕に告げる。
「俺たちの性とひなの性のこと。郁もわかっておかないとな」
移ろう満天の星の下、掠めるたばこの匂い。
その中で、桐人さんは言葉を浮かべた。