もう一度転校したら、郁は少し具合がよくなった。

 転校先はプラネタリウムのある山間の町だ。

 ほとんど若い女性がいない町と学校だから、郁は安心したらしい。

 私は二時間かけて出勤することになったけど、郁が元気なことが一番だ。

 帰りの電車の中、生乾きの服のような疲れに襲われる。

 仕事でずいぶん遅くなってしまった。郁はちゃんとご飯を食べただろうか?

 今日は笑っているといいな……と思っていたとき、ふっと視界が暗くなった。

 落ちてしまった意識の中で、また郁のことを考える。

――この想いは恋じゃないけど、今の私の中心だよ。

 あの人が言っていた。

 私の郁への想いは恋じゃない。でもそれは、心のまんなかにある想い。

 先に食べていてと言っていても、郁は私の帰りを待ってしまう。

 早く帰らないと……。

 とめどない思考のループに落ちていたとき、ようやく意識が覚めた。

 目に飛び込んできたのは、泣きそうな郁の顔だった。

 郁、どうしたのと言おうとして、声がかすれる。

「ひなちゃん、具合が悪かったの?」

 私は病院のベッドの上にいた。郁はその傍らで、私をのぞき込んでいた。

「……ちょっとね」

 通勤時間が長くなって、仕事が詰まるようになった。

 勤続年数が十二年、そろそろ中堅どころで、忙しくもなっていた。

「郁、ごはん食べた?」

 でもそれはそれだけのことで、問題は郁の晩ごはんだ。

 郁は一度喉を詰まらせると、押し殺したように泣き出す。

 うろたえた私に、低い声がかかった。

「ひなが思ってるより、彼はもう大人なんじゃないかな」

 私は驚いて、郁の隣に座っていた人に気づく。

 静けさをまとう独特のまなざし、大樹のように力強い体格。

 一瞬、時間が十二年前に戻った気がした。私がまだ子どもだった頃に。

「……お父さん」

 つぶやいた私に、彼は目じりをくしゃっとさせて笑う。

「まだそう呼んでもらえるならよかった」

 彼は私の父親だった頃のように、穏やかに私を見下ろしていた。









 私が郁と同じ年だったとき、鷹生(たかお)さんは私の母と結婚した。

 母は長年難病と闘っていて、鷹生さんと再婚したときにはもう、ほとんど病院から出られなかった。

 鷹生さんはそのときまだ三十三歳。彼の父親から不動産会社を受け継いだばかりの働き盛りだった。

 二人がどういうつながりで知り合ったのかは、実はよく知らない。

 私が死んだら、何も言わずに鷹生さんを自由にしてあげてね。母はそう言っていた。

 けれどそれからまもなく母が亡くなっても、彼は私と弟を育ててくれた。

 何も後悔していないと、いつか彼は言った。

「彼女と結婚したこと。今は君と斗真(とうま)が心のまんなかにある。それが私なんだ」

 この人は初めて会ったときから、自分のことを私と言う。

 それが大人っぽくて、私はいつも憧れていた。

「私の今の心のまんなかにあるのは郁です」
「そうだろうね。昨日も、声をかけるまで郁君の隣の私に気づかなかった」
「すみません」

 郁が学校に行っている間、真昼の病棟で、鷹生さんと苦笑いをこぼしあう。

「郁君は優しい子に育ったね。ひなによく似てるよ」

 鷹生さんは今私が聞いて一番うれしいことを言って、ふいに笑みを消した。

「携帯を見た」

 私はつと鷹生さんから目を逸らした。

「脅迫まがいのメールがたくさん入っていた。倒れた原因は過労より、そちらだろう?」

 私は探るように鷹生さんをうかがう。

 そこに父親としての変わらない意地が見えて、私はごまかすのをあきらめる。

「郁の担任の先生と、少しトラブルがあったんです」

 彼女は郁に恋をしていた。母親でもないのに郁の一番近くにいる私を、憎んでいた。

 自殺未遂の後もたびたび、いやがらせのメール。思っていたより、堪えた。

「学校や警察に相談した方がいいんじゃないか?」
「郁がもっと傷つきます」

 私は眉をひそめて鷹生さんを見返す。

「郁には言わないでください。せっかく学校にも行けるようになったんですから」
「僕はいつまでもひなちゃんに抱っこされてる子どもじゃないよ」

 カーテンが引かれる。郁がそこに立っていた。

「郁。学校に……」

 立っていると、とっくに私より背が高くなっていたことを見せつけられる。

 私は鷹生さんを見やる。

 彼は郁をちらと見て、彼の言葉を聞いてやりなさいと目で合図を送ってきた。

「僕、もうひなちゃんを持ち上げられるよ。やってみようか?」

 郁は挑むように言って、じっと私を見下ろす。

 私がひるんだのを見て取ったのか、鋭かった郁の目が後悔の色を帯びる。

「ごめん。僕が子どもじゃなくなったら、ひなちゃんはどうしたらいいかわからないよね」

 そんなことないよ、と言ってあげたかった。

 でもきっと、郁の言葉が真実だ。

 見ないようにしているけど、成長していく郁が男性だと気づくと、私は怖かった。

「でも僕、ひなちゃんと一緒にいたいんだ。ひなちゃんが荷物重たいって言ってたら、持ってあげたいんだ」

 郁は私のベッドの傍らに座って言う。

「教えて、ひなちゃん。僕が助けてあげられることはない?」

 郁が生まれて、私は泣かなくなったけれど。

 郁の優しさを感じるたび、いつも泣きたくなる。

 私はうなずいて、ぽつぽつと二人に話し始めた。








 郁はもう一度、元の学校に通うことになった。

 それなら私の通勤時間が短いし、住み慣れたところだから、私も郁も気楽だった。

 郁の担任の先生のことは、鷹生さんも間に入ってくれて、学校に相談したら落ち着いた。

 彼女はどうにか免職はされず、隣の県で働いているらしい。

 それでよかったと思った。

 恋は人を傷つけることがあるけど、心のどこかにあると、幸せな気持ちがするものだから。

「ひな。郁君が一人暮らしを始めたら、また一緒に暮らさないか」

 別れ際、鷹生さんが冗談半分に言った。

 鷹生さんも私もくすくす笑い合う。

「いやですよ」

 私の答えに、鷹生さんは、ひならしいよと、また笑った。

 懐かしい背中を見送りながら考える。

 明日も仕事。日常は続いていく。

 でもその前に、そろそろ郁が帰ってくる。ごはんの準備をしなければ。

 今日は笑っているだろうか。

 春の香りがし始めた空を仰いで、家への道を急いだ。