午後からは、南に歩いてナショナルギャラリーに行った。

「ええと、寄付を……と」

「智子さん、こっち」

 大英博物館と同じように私が小銭を寄付しようとしたら、リチャードがくいと私の袖を引いた。

「ガイドマップが1ポンドだから、それを買うといいよ。君も美術館もハッピーになる」

「なるほど、じゃあそうする」

 ためになる情報を教えてもらって、私は寄付代わりにガイドマップを買うことにした。

 私はガイドマップをぺらりとめくって、一瞬沈黙する。

「……広いね」

「まあここも全部回ろうと思ったら、一日や二日じゃ足らないから」

 リチャードも横から覗き込みながら尋ねる。

「ある程度目的を絞らないとね。見たい絵とかある?」

「とりあえず、一番有名なゴッホの『ひまわり』は見たいな」

「うんうん。他には?」

「ルノワールとか、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵もよければ」

「君、モネの『睡蓮』も好きじゃなかった?」

「あるの?」

「あるよー。じゃあそんな感じで回ってみようか」

 リチャードは何度も来たことがあるようで、マップをざっと見回してから歩き出した。

「わぁ……」

 高い天井の下、整然と無数の絵がかけられている。色鮮やかに、今描かれたばかりのように輝く。

 ここにある絵は名のある画家によるものばかりだ。ヨーロッパ中から集まった数々の傑作が一つの建物の中で見られるのは、きっと幸せに違いない。

 夢のような気持ちで左右を眺めている私を急かすことなく、リチャードはゆっくりと横を歩きながら私を導く。

「これがダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』」

 奥に辿り着いてまず見たのは、ルネサンス期の絵だった。

 陰影が濃くて躍動感がある。つい息を止めてしまいそうになる。

「迫力があるね。ダ・ヴィンチさんすごい」

 私は少し興奮しながら見ていった。

 それからまたいくつか部屋を渡って、レンブラントの自画像を見つけた。もうだいぶ高齢の時の絵だけど、雰囲気があって良かった。

「あれがディエゴ・ベラスケスの絵。『鏡のヴィーナス』ね」

「綺麗な背中だ……しかし」

 鏡に向かって横になる素敵なお姉さんを見上げながら、私は一言告げる。

「なぜ脱がすんだろう」

「そりゃまあ、この時代見る方も描く方も男性だからねぇ」

 ふうん、と頷いて私は何気なく尋ねる。

「リチャードも見たいの? 女の人の裸」

 さすがに中学生の男子とは違うよ、というような答えが返ってくるかと思いきや、リチャードは晴れやかな笑顔を浮かべて頷いた。

「もちろんさ。いつでも見たいと思ってるよ」

 何て爽やかに答えるのだろう。呆れを通り越して感心してしまった。

 ふとリチャードは思いついたように声を上げた。

「あ、そうだ。君、ポスターとか買う? だったら早めに注文しといた方がいいよ。一時間くらいかかるから」

「じゃあ買おうかな。お父さんが『ひまわり』のポスターが欲しいって言ってたんだ」

「ん。それなら、ひとまず売店に行こうか」

 画廊を離れて廊下を通り、階段を降りる。

 売店というより小奇麗なインテリアショップみたいな所で、私はきょろきょろとポスターを探す。

「あそこの機械を操作して印刷するの。できそう?」

「やってみる」

 私はリチャードの言葉に頷いて、隅に置かれた機械に足を向けた。

 それからポスターの発注をして、私たちはまた画廊に戻った。

 さっきは古い時代順に見たけれど、今度は新しい時代の方から入ったから一気に時代が後になった。

「あ、『睡蓮』だ。綺麗だね、リチャード」

 クロード・モネの『睡蓮』は、水に差しこむ木漏れ日がきらきらしていた。光の粒が見えるみたいだった。

 『睡蓮』はモネが何度も描いた題材だから、同じタイトルの作品が世界中にある。実は私も隣の県の美術館で見たことがあった。

 でもここにある『睡蓮』も素敵だった。この絵の中でお昼寝をしてみたいと思った。

 それからも、あっちこっち私はうろうろしながら見ていた。宝箱の中を探すみたいな気持ちだった。

――絵画の中には、時間が残っているんだよ。

 私はそう絵画に詳しくないけれど、デニスは美術も好きだったから時々画集を見せてもらっていた。

――写真のように一瞬ではなく、それよりほんの少しだけ長い時間がある。人が描いたものだから。僕はその僅かな時間の流れを感じたいと、絵を見るたびに思う。

 ふいに私は一つの絵の前で立ち止まった。

 衝撃的なシーンを見て、私はすぐに思い出した。デニスの持っていた本に、この絵が載っていたのだ。

「これは確か……『レディ・ジェーン・グレイの処刑』」

 それはイングランドの女王でありながら、即位してたった九日で処刑された女性の実在の悲劇を描いた絵だ。

 呆然と座りこむ侍女に、介添えをする聖職者、首切りの執行人がいて、そして白い衣装を身にまとった女王レディ・ジェーン・グレイが首切り台を探す。

 大きな絵だ。壁一面を覆うほどだった。

 処刑なんて、現代日本では遠い出来事だ。海外でだって、今や斬首という方法を使う先進国などほとんどないだろう。

 でも過去には確かにあった。そう思うと、じわりとした恐怖感に襲われる。

 私は侍女の表情を見た。生気がなくうずくまる彼女は、すべてを諦めているように見えた。聖職者も、首切りの執行人でさえ暗い表情をしているようにうかがえる。

 だけどこれから処刑されるレディ・グレイだけはわからない。彼女は目隠しをしていて、表情が窺いにくくなっている。

――デニスが息を引き取った?

 三年前の二月後半、私はリチャードからの電話でそれを知った。

――子どもの頃からあの子には持病があったんだ。成人まで生きられないとは、ずっと言われてた。

 そんなことは知らなかった。聞いたこともない。デニスもそんなこと一言も言っていなかった。

 そして後で知ることになる。デニスの病気のことを知らなかったのは私だけで、デニスの家族はもちろん、ホームステイ先である私の両親も知っていたのだ。

 だからなかなか信じることができなかった。私には死にゆくデニスを想像できなかった。

――デニスは……。

 別れ際に何と言ったか、どんな顔をしていたか、思い出そうとしたけどできなかった。

 まるで目隠ししているように、デニスの目が見えなかった。その心がわからなかった。

 でも今、静寂の中で思う。

 こんなに若くして人生を終えなければいけない。死に直面しなければならない。二度と自分の好きなことをすることができない。

 ……それは怖い。悲しい。悔しい。

 デニスだってそう思ったに違いないと、絵を仰ぎ見ながら思う。

 そして今強く、訊けばよかった、とも考える。

 私はデニスにいろんな話をした。今日学校であったこと、喜んだり怒ったりしたことを、学校から帰ってくるたびにデニスに話して、そしてデニスはそれを聞いてくれた。

 デニスは私より大人っぽくて、頭もいいし、立派な紳士だからと思って尋ねなかったけど、デニスだって人間なのだから色々な気持ちを持っていたはずだった。

 デニス、君は何を考えていたの?

 聞いて私に何ができたわけでもなくても、私は君に何かしたかったよ。

「デニスは……」

 ふと振り向いて、私は動きを止める。

「……リチャード?」

 ずっといたはずのリチャードの姿が見当たらなかった。

 辺りを見回す。無数の絵が並ぶ部屋の中には、人が流れるように歩いて行く。

 部屋から出る扉は四つ。隣の部屋に行っても四つ。同じ構造をしているがために、余計にわからなくなる。

――デニス。どこに行ったの?

 よくデニスと東急ハンズに行ったが、夢中になっているとデニスの姿を見失うことも多かった。

 人と物に埋もれていると、私は迷宮に迷い込んでしまったような思いになった。

 どうしよう、と私は子どものように画廊をさまよう。

 リチャードにも会えなくなってしまうのだろうか。

 そう思った途端、私はじわりと目の奥に熱いものが滲むのを感じた。

「あ、智子さんここにいた」

 ふいに能天気な声が頭上から降ってくる。

「ごめんねー。会社からまた電話で。ちょっと離れるって言ったけど、君熱心に見てるみたいだったから……って」

 リチャードは私を覗き込んで眉を寄せる。

「泣かないで、智子さん」

「泣いてないよっ」

 私は口元をへの字にしてリチャードを見上げる。

「ごめんね」

 もう一度謝ったリチャードに、私は首を横に振る。

 リチャードは少し考えて、手帳を破いて何か書き込んだ。

「智子さん。これ僕の携帯番号」

 メモを渡しながら、リチャードは言う。

「困ったらお店にでも入って電話をかけさせてもらいなさい。僕はロンドンのどこかにいるから。わかった?」

「……うん」

 私はやっと落ち着いて、リチャードの横を歩き始めた。

「ごめん。なんだか、子どもみたいで」

「君は僕より子どもだから仕方ないよ」

 私はむっとしてリチャードを見る。

「子どもじゃない」

「どっちなのさ」

「何となく君に子どもと言われると許せない」

「はいはい、そうですね。君はレディですよ」

 いつもの雰囲気が戻って来て、私たちはまたどうでもいい言い合いをしながら画廊を歩いた。

「あ、ルノワール」

 優しいタッチで描かれた女の子の絵を見て、私は微笑む。

 色彩が豊かで温かみのある絵だった。溢れる光に、懐かしさが胸を衝く。

「ほっぺに触りたくなるよね」

「リチャード、そういうのを日本ではHENTAIと言うんだよ」

「ヘンタイばんざーい」

 そんなことを言いながら部屋を渡って、私たちはこの美術館のメインの絵の元に辿り着く。

「これがゴッホの『ひまわり』」

 独特の色とタッチで描かれた、花瓶に入ったひまわりの絵だ。

「禍々しさを感じるくらいだね。ちょっと怖い」

 迫力がにじみでている。枠を壊して絵の中からひまわりが出てきそうな錯覚さえ感じる。

 色は黄色とオレンジの間くらいで、少しくすんでいるのに色鮮やかだ。

「僕はこれ、好きだな。生きてるって感じで」

 リチャードはぽつりと言う。

 私も絵を見ながら少し考えた。

 生きているものは、死んでいくもののエネルギーを吸って命をつなぐ。

 それはきっと醜い。けれどそうしなければ生きていけない。

 ひまわりの絵は、美しいとは思えなかった。けれど目を引きつけてやまなかった。

「あと、最後にロンドン画家の絵を一つご紹介しよう」

「私はあんまり知らないんだけど、誰の作品?」

「ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー」

「ウィリアム・ターナー……」

 少し考え込んだ私に、リチャードは指を立てる。

「君の好きな海賊映画のターナー君とは別人です」

「わかってる。ただ、ウィルもかっこよかったけど、あの映画ではやっぱり」

「はいはい。ジョ○ー・デップが一番かっこいいんでしょ」

 そうしてリチャードが連れて来てくれた先にあったのは、風景画だった。

 海を引かれていく船の絵だ。夕焼けが眩しくて、海が茜色に染まっている。

「この船はね、これから解体されに行くんだよ」

「そっか。だから寂しそうなんだね」

 船に表情はないのに、どうしてかそう思った。

 薄い曇り空の下、淡い線と色で構成された船が海を渡っていく。その僅かな時間を、私はぼんやりと眺めていた。

 それから売店に戻ってポスターを受け取った。三角形の紙が折れ曲がらないように配慮された透明な箱に入っていた。

 家に帰ったら父に渡して、絵の中に封じられた時間をまた覗き見よう。そう思いながら、私は三角の箱をそっと抱きしめた。