そこはこの博物館の目玉であるだけあって、人で溢れていた。通路を通るのも人に断らないといけないくらいだ。

「さて、どうしよう。手でもつなぐ?」

「そんな子どもじゃない」

 おどけて手を差し出したリチャードにむっとして、私は先にてくてく歩きだす。

「何隠れてるの、智子さん」

 けれど数歩のところで、私はリチャードの後ろにこそこそと戻った。

「み、ミイラが……」

「どうして君はそんなにミイラが怖いの?」

「だってこれ、死体なんだよ」

「死体なんだから襲ってきたりしないよ」

 私は展示品と目を合わせないようにしながらその場で足踏みをする。

 茶色く変色した包帯がちらっと見えただけで、私は身を縮こまらせる。

 何千年も昔のものが残ってるのはすごいと思うけど、あの中にご遺体さんが入っているかと思うと背筋が冷たくなる。

「ま、デニスも怖がってたけどね」

「え?」

「まだデニスがプライマリーに上がって間もない頃かなぁ。ここに一緒に来たんだけど、僕の服の袖ぎゅっと握ってぷるぷるしてた」

 意外さに私が何も言えないでいると、リチャードはふっと懐かしむように目を細める。

「『リチャードはこわくないの。この人、もう死んじゃってるんだよ』ってね」

「死が、怖かったのかな」

「うん。僕らはまだあの子に病気のことを伝えてなかったのに、どこかで感じ取っちゃってたのかな」

 リチャードはくしゃ、と顔を悲しそうに歪める。

「とうとう泣き出しちゃって。僕は宥めるためにデニスを抱っこした。でもそれはデニスのためだけじゃなかったのかもしれない。何もしてやれない自分の顔を見られたくなかった」

 目を伏せて唇を噛むリチャードを見上げて、私はそっとその頬に手を当てる。

 私にもそれくらいしかしてあげられない。そう思って俯いていると、リチャードはひょいと私の脇を持って抱き上げた。

「わ」

「でも抱き上げたら、デニスは笑ってくれた」

 リチャードは目を開けて、くすっと笑いながら私を見上げた。

「君も笑ってくれると、僕は嬉しいんだけど。これだけじゃ駄目?」

「私、そんなに子どもじゃないから」

「そうかぁ」

 残念そうに呟くリチャードに微かに笑ったら、彼は口の端を上げる。

「あ、今ちょっと笑ったでしょ」

「笑ってない。それより下ろしてよ」

「はいはい」

 足に床の感覚が戻ってほっとしていたら、リチャードが難しい顔をした。

「うーん」

「どうしたの?」

「君、ちゃんとご飯食べてる?」

「毎食食べてるよ」

 リチャードは首を傾げながらぼそりと言った。

「身長にも胸にもいかないなら、どこに消えてるんだろう……」

「しみじみと言うな」

 その辺りもリチャードが私の気分を落ち込ませないために言っているのだろうと何となく感じていたから、それ以上追及することはしなかった。

「あ、下にもエジプト展あるみたい」

 神殿のような建物の中、展示物が至るところにあった。ガラスケースに入っているものだけでなく、階段の上にモザイク画が飾られていたりもした。

 案内表示を見ながら、私たちはもう一つのエジプト展に来た。こちらは彫刻が中心で、大きな吹き抜けのような空間に無造作に展示物が置いてあった。

「せっかくなのでロゼッタストーンも見て行こ。こっちだよ」

 リチャードが手招きする先についていくと、少し照明の落ちた空間があった。

「あれが?」

「うん」

 人が固まっているしライトアップされているのですぐにわかった。

 ただ、人が壁のようにひしめているので、背のそれほど高くない私では展示物を見ることができない。

 ちら、と横を見ると、小さい男の子がお父さんに肩車してもらっていた。

「僕もやってあげよっかー?」

「結構です」

 私の視線の先に気づいたリチャードに丁重にお断りしてから、私はようやく動いた人の前に出る。

 ロゼッタストーンは、見た感じは何の変哲もない石板だった。細かい字が一面に刻まれていて、私には何が書いてあるのか全く読めない。

 しかしこれがあったおかげで、もう失われていた古代の言語を読み解くことができた。過去の中で忘れられていた時間と今がつながった。

――歴史的意味を知らなければ何の価値も見出せないものがけっこうある。ロゼッタストーンはその典型だ。

 そうだね、と私はデニスの言葉に頷く。

 知らなければその価値に気づかない。そういうものが、博物館には溢れているのだろうと思う。

「さぁて。そろそろお昼だけど」

「あ、出発する前にちょっと待って」

 白い吹き抜けのロビーまで来て、私はインフォメーションに小走りに近付く。

『すみません』

『はい』

 ミイラは怖いけれど、ここまで来たのだから見ておかなければいけないものがあると思ったのだ。

『ツタンカーメンってどこですか?』

 白い肌のまだ若い係員さんは、私の言葉にあっさりと返した。

『いや』

 さらりと、お兄さんは言葉を続ける。

『それはエジプトだよ』

『あ、そうなんですか……』

『ミイラならあそこを上がってすぐだけど』

 ミイラはもういいです、と思いながら、私は引きさがる。

『ありがとうございました』

 かかなくていい恥をかいてしまったと、私は頭を軽く押さえて後ろに下がる。

「ぷぷっ」

 案の定、リチャードは私を見るなり可笑しそうに声をもらす。

「『それはエジプトだよ』、ね。すばらしく的確で無駄のない言葉だ」

「くっ、いいよ別に。おもいきり笑えば」

「それがね、あんまり笑えない事情もあるんだぁ」

 出口の方に歩きながら、リチャードは話し始める。

「ツタンカーメン王の黄金のマスクはね、以前はここにあったんだけど、エジプトに返したの。悲しいかな、大英博物館のほとんどが他国のものだからね」

「あ……うん。確か、ロゼッタストーンも」

「そう。それも略奪品」

 私たちは外に出て階段を降りて行く。

「ここになければ価値が理解されずに失われてしまうから残しておくべきとか、そもそも僕らが研究して価値がわかったのだから返す必要はないという意見もあってね。美術品の返還問題っていうのは世界的に議論になってる」

 正面玄関の方から出ると、大英博物館の全貌がうかがえた。

 近代的なロビーとは違って、そこは古代ギリシャの神殿のようだった。膨大な時代の収まった巨大な箱の外観にふさわしい。

「僕らの国にはかつて大きな力があったから、ここまでの博物館が作れた。だけど、遠くない未来にここは小さくなっていくんじゃないかな。僕はそれでいいような気がするけどね」

 私は枠にすべて入りきらない大英博物館の建物を、一枚写真に撮った。

「あ、でも」

 そこでリチャードは悪戯っ子の顔になって、私を見下ろす。

「浮世絵は対価を払って日本から買ったものだから。たぶんあの春画は、これからもあそこに展示されるよ。やったね」

「うう……」

 嫌なおまけ情報を教えられて、私はがくりと肩を落とした。