ぽふぽふ、と頭に不思議な感覚がして、私は目を開けた。

「……リチャード。何してるの?」

「なでなでしてる」

 リチャードは右手で運転しながら、左手で私の頭を触っていた。

「危ないでしょ」

「それは事故という意味で? セクハラという意味で?」

「両方だ。ヘンタイドライバーめ」

「わー、ごめんなさいー」

 おどけて両手を上げるリチャードに、私は目を怒らせる。

「こら、ハンドルから手を離すな」

「だって智子さん、全然僕の相手してくれなくて寂しいんだもん」

「二十六の大人が寂しいんだもんなんて言わないの」

「いくつになっても寂しいものは寂しいんだもんー」

 これでデニスより七つもお兄さんだなんて信じられない。リチャードは実に正直に感情を口にする。

 けど窓に向きなおって、私は腕時計の針が指す時間に気づく。

「あと十分くらいで着くよ」

 ホテルを出発しておよそ二時間以上経っている。その間、おしゃべり好きのリチャードはずっと黙って私が眠るままにさせておいてくれたことになる。

「あの……」

 時差ぼけとかでだるい私を気遣ってくれたのかな、と思って、お礼の一つも口にしようとした時だった。

「今、雨止んでるから窓開けていい?」

「いいけど。寒くない?」

 リチャードはなぜか含み笑いをして、ウインドーを下ろした。

 がくん、と私は前のめりになる。

「……なっ」

 ジェットコースターの一番高いところに来たような気分だった。

 急斜面の坂の真上から、私たちを乗せた車は勢いよく滑りだす。

「ちょっ、ブレーキはっ?」

「ははっ。そんな野暮なもの踏む奴いるの?」

 ブレーキと野暮の関係性を考える間もなく、車はほとんど落ちるようにして坂を走っていく。

「危ないよっ」

「聞こえなーい」

 ピイ、と口笛を吹いて、リチャードはくすくす笑う。

 窓から風がビュンビュン入ってくる。寒さなんて感じている暇はない。窓を開けたがった理由はこれか、と私はリチャードを睨む。

 時間にして数分のジェットコースターを終えて、私はがくりと肩を落とす。

「イングランドって山がない代わりに丘が多くてね。その丘を切り開いたからこんな愉快な地形になってるの。わかった?」

「思い出したような解説をありがとう」

「喜んでもらえて嬉しいな」

 そんなことを言い合っている内に、車は小さな村の駐車場に着いた。

「ボートン・オン・ザ・ウォーター村に到着―」

 リチャードが手を広げて、それからこいこいと手招きする。

 そんなリチャードと高い石垣に誘いこまれるように小道を行くと、視界が開けた。

「……ふふ」

 立ち並ぶ一戸建ての家々を見た瞬間、思わず私は微笑む。

「なぁに、智子さん?」

「童話の中に来たみたいだなぁ、って思って」

 ここは、子どもの頃絵本で読んだ世界のような村だった。

「ピーターラビットとかクマのプーさんとかが、その辺から出てきそう」

 実際は、ピーターラビットは湖水地方、プーさんはアッシュダウンフォレストがモデルだと調べて知ったけど、つい似ていると思ってしまうのだ。

「まあ、イングランドの小さい村ってことに変わりはないかな」

 リチャードもそのことはもちろん知っているだろうけど、私の言葉に頷いてくれた。

 道路を挟んだ向こう側に小川が流れていた。その両端を緩く弧を描きながらつないでいる橋で、私は手すりに頬杖をつく。

「物語はもう覚えてないんだけど、かわいくて綺麗な絵だった」

 どちらも子どもの頃大好きだった絵本だ。

 木々の間に小川が流れて、こじんまりとした可愛い家が建っているだけの風景なのに、見ていると優しい気持ちになる。

「あれがコッツウォルズ地方の名物、はちみつ色の石壁?」

「そうだよ。どこの家も大体この色なんだ」

「はちみつっていうよりは、バターみたいだけど」

 金色に近い色をしている家々の壁を見ながら、私は考える。

「でもそっと光ってるところは、はちみつに似てるね」

 黄金や宝石とは違う、淡くてささやかな光の色だった。

――懐かしいっていう気持ちは、切なさに似てるよね。

 私は一息ついて目を細めた。

 デニスの言葉の意味が今少しだけ理解できた。望郷の心は確かに切ない。

 幼い頃に好きだった光景は、ずっとそのまま残しておきたいと願う。それは他に代えることのできない宝物だから。

 リチャードと小川の脇道を歩いていると、雨が降って来た。

「傘ささないの?」

「うん」

 私が慌てて傘を広げているのに、リチャードはのんびりと答えた。

「持ってないもん、傘。僕のことは気にしないで」

 そうはいっても濡れてしまう。私は一つ頷いてリチャードに持っていた傘を押しつけた。

「これ貸すから。差しなさい」

「え、じゃあ君どうするの?」

「私にはこれがある」

 私はバックパックから雨カッパを取り出して被った。

「さあ行こうか」

「こういうのなんだっけ……ああ、そう」

 リチャードは私を頭からざっと見回して呟く。

「座敷わらし」

「私とレインコートに謝れ」

「だって」

 くっくっと笑って、リチャードは私に傘を差しかける。

「二人で入ればいいだけでしょうが。さあご機嫌を直して、お嬢さん」

 何だか気にいらなくて私がむっつりしていると、リチャードは少し先の小さな看板の店を指さす。

「お兄さんがチョコレートでも買ってあげよう」

 入った店は日本でいう駄菓子屋さんのような所で、小物とお菓子が売っていた。そしてそのお菓子の棚の半分がチョコレート菓子だった。

「心なしか高い」

「チョコレート税がかかってるからね」

「え、なんで?」

「んー、肥満防止だったっけ?」

 リチャードも忘れたようで、少し首を傾げていた。

「まあいいや。せっかくだから自分で買う」

 結局私はチョコレートでコーティングされたクッキーを買った。

 外に出て、霧雨の中、私たちはまたぼちぼちと歩く。

「あ、ちょっと寄っていい?」

「もちろん」

 私は途中で郵便局に寄って、そこで絵葉書を買った。

「誰に送るの?」

「田舎のおじいちゃんとおばあちゃん」

 日本にいた時は現実にあるとは思えなかったような、まさに絵のようなコッツウォルズの風景を選んでみた。

「ええと……郵便の送り方は、と」

 ガイドブックを開こうとした私から、リチャードはひょいと本を取り上げる。

「普通に文面と住所を日本語で書いて、あとは大きく『BY AIR MAIL』。それを窓口まで持って行って切手買って貼って、ポストへ放り込む」

「自分で調べるのに」

「ふん。僕がいるのにガイドブック開く智子さんが悪いんだ」

 ちょっと拗ねた感じでリチャードが口をへの字にした。

「わかったよ。今度から訊くから」 

 私はリチャードをなだめて、数歩分しかないこじんまりとした郵便局の奥へと向かう。

『エアメールです』

『67ペンスよ』

 銀縁眼鏡のおばちゃんが切手を取り出しながら言う。

 私は財布を開いて、たら、と冷や汗をかいた。

 イングランドの小銭は数字が記載されていないものが多い。しかも、慣れない硬貨なものだからさっぱり区別がつかない。

「えと」

 たぶんサイズ的に大きいものの方が価値も大きいはず。そんなことを漠然と思いながら、私は小銭を手のひらの上に出す。

おたおたしながら私がいくつかの小銭を差し出すと、おばちゃんは明るい声で言う。

『あら。よくできたわね』

「おお。確かに67ペンスだ」

 横からリチャードも覗き込んで頷く。

『ありがとうね、お嬢さん』

「ど、どうも」

 手をひらひらさせて代金を受け取ったおばちゃんに思わずお礼を返して、私は窓口を離れた。

「どうしたの?」

「……リチャード」

 切手を貼って絵葉書をポストに入れてから、私は難しい顔をする。

「東洋人ってそんなに幼く見える?」

「まあ、一般的にはね」

 リチャードは私の頭をぽふぽふ叩いて言う。

「でも君が幼く見えるのは、君が童顔だからだね」

「真実だからって言っていいことと悪いことがあると思わないかな?」

「君が訊いたからじゃんー」

 それからまた、街を川沿いに歩いた。眠気を誘うくらいのんびりとした、緩やかな時間だった。