日本に帰国して倒れるように眠ってから、一昼夜が過ぎていた。

「あら、ともちゃん。おはよう」

 リビングに下りると、母がソファーに座って編み物をしていた。

「お腹空いてない?」

「うん。なんだか……眠くて」

 カーテンの外は昼の光で溢れているけど、感覚ではまだ真夜中のようだ。

「洗濯物とか出さなきゃね。ああ、おみやげもいっぱいあるよ」

 いつまでも旅行気分でいてはいけない。日常に戻さなければと思う。

 私はだるい体を叱咤しながらトランクの方に向かった。

「ともちゃん。リチャード君と喧嘩でもした?」

 トランクに手をかけたまま、私はぴたりと手を止める。

 振り向くと、母は困ったように口元を歪めて私を見ていた。

「あの子ね、ともちゃんがイングランドに行く三日くらい前かしら。お母さんに電話をくれたのね。すごく楽しみにしてるみたいで、『早く来ないかな』って何度も言ってたわ」

 母がリチャードに色々話したから、リチャードが私の到着する時間を知っていたのだろう。私は彼にそこまで旅行の日程を詳しく話していなかったのだから。

「リチャードはすごく親切に案内してくれたよ。おかげで楽しかった」

 楽しかったのは本当で、リチャードに感謝しているのも本当だった。

「でも何か失敗しちゃったのね?」

 だけど母は私の心の痛む部分を簡単に読みとってしまったらしい。

「……お母さんね、よくこの時間帯、ここでデニス君と話したわ」

 私は壁掛け時計を見上げる。

 今は昼の三時くらいだ。私が高校から帰ってくる時間の、少し前だった。

「懐かしいわ。あの子は本当に出来た子だった。いつもきちんとしていて、大人びていて、声を荒げたことすらなかったわね」

「そうだね」

 デニスはそうだった。常に人と一歩離れたところから話しているようで、怒りもしなければ笑うこともめったになかった。

「私とも、喧嘩したことなかったよ」

「みたいね」

 母はそこでついと目を上げる。

「だけど、人が二人いたら、喧嘩して当たり前なのよ。違う人なんだからね」

「……でも」

 私は顔を伏せてぼそぼそと言う。

「私、酷いこと言っちゃったから。もう許してはもらえないと思う」

「そうかしら」

 母はおっとりと首を傾げる。

「あなたとリチャード君は三年間文通したのよね。それはたった一回の喧嘩で切れちゃうものなのかしら」

「……」

 私は俯いて黙る。

「ごめんなさいって、ちゃんと言った?」

「メールで……帰国する前に」

「それで、リチャード君は何て?」

「……わからない」

 怖くて、メールボックスはまだ開けていない。私とリチャードをつなぐ唯一の箱を開けることはなかなかできない。

「向き合うことから逃げちゃ駄目よ、ともちゃん」

 母はじっと私をみつめて言う。

「あなたがイングランドに行くって聞いた時は嬉しかったわ。デニス君とようやく向き合うことを決めたんだって思ったもの」

 編み物を横に置いて、母はソファーを立つ。

「だけど生きている人とつながっていくには、向き合い続けなきゃ。それが大切な人であればあるほどね」

 ぽんと私の頭を叩いて、母は買い物に行ってくるわ、と告げた。

 私はしばらくリビングに座っていたけど、やがて部屋に戻ってくる。

 パソコンをつけてメールボックスを開こうとしたけど、できなかった。

 時間が経てば経つほど、リチャードとの距離が遠ざかっていく気がする。ただでさえ離れた場所にいるのだから、これ以上離れたら二度と会えなくなるかもしれない。

 私はパスポートケースにデニスの手紙と一緒に入れておいた、リチャードの携帯番号のメモを取り出す。

 つながるだろうか。国が違うから、電波は届かないかもしれない。それに今頃あっちは早朝だから、迷惑で出てくれないかもしれない。

 だけど、もう君につながるものが他に思いつかないんだ。

 迷いながら番号を打ち込んで、携帯を持ったまま座りこむ。

 通話ボタンの上で私の親指が震える。

 怖い、と思った。人に近付くのは本当に怖い。

 それでも押していた。怖くても、近付きたかったから。

 リチャードのことを知りたくて、私のことを知ってもらいたかったから。

 コール音がかかる。私は耳に携帯を押し当てて、爆発しそうな鼓動と共に待つ。

 永遠のような数秒の待ち時間の後。

 うずくまったままの私の耳に、懐かしい声が聞こえた。

『Hello?』

 心臓がどくんと跳ねて、私は咄嗟に何も言えなかった。

「り……リチャード。私、智子です」

 やっとのことで、私は恐る恐る言葉を放つ。

「話したいことがあるんだ」

『……』

 通話口の向こうで、リチャードが一瞬沈黙する気配がした。

『うん。僕からも話したいことがある』

 ピ、と通話が途切れる音がした。

「だから直接話そう」

 電話ではなく直に声が聞こえて、私は驚きながら顔を上げる。

「え?」

 膝をついて、リチャードが目の前に屈みこんでいた。

 襟が乱れていた。髪がほどけていて、薄く眼の下にクマが見えた。

 それはスマートでもクールでもない姿だったけど、私は思わず飛びついていた。

「……会いたかった」

 顔を見た途端に堰を切ったように涙が溢れて来た。顔を拭うということすら忘れて、私は泣く。

「ごめん……ごめんなさいっ」

 言いたいことはたくさんあったはずなのに、今はそれしか出て来なかった。

「僕もごめん」

 リチャードは私の頭をぎゅっと抱いてくれた。

「君を見知らぬ街に置き去りにするなんて最低だ。あれからすぐ戻ったんだけど、もう君はみつからなくて。このまま永遠に会えなくなるんじゃないかって、怖かった」

「違うよ。リチャードが悪いんじゃなくて」

 リチャードは首を横に振って息をつく。

「君は簡単に僕とさよならするつもりなのかって、どうしようもなくかっとなったんだ。でもそうじゃなかった」

 かき抱くように私の頭をかかえながら彼は言う。

「君からのメールを読んだよ。僕は誤解してた。君は三年間誠実だったし、あの瞬間だって僕のことをちゃんと思ってくれてた。ごめんね」

 違う、ごめん、と私は自分でもわけがわからないまま繰り返す。

「いや、僕が悪い」

 リチャードはふいに体を離して、しかめ面で言う。

「家においでなんて言ったら普通はそういう意味に取る。妹みたいだなんて、馬鹿なことを言った」

 私の知る、ちょっと子どもっぽいような表情になる。

「だってそんなの嘘だし。下心だってあったし。英国紳士が聞いて呆れる」

「……ずいぶんはっきり言うね」

 思わず呟くと、リチャードは頷く。

「本音だもの。最初からそう言えばよかった。もちろん無理強いする気はないけど、僕は君にゼロ距離まで近づきたいってずっと思ってたよ」

 私ははっとリチャードを見上げる。

「僕は一生懸命日本語を勉強したつもりだったけど、やっぱりまだ下手なんだ。だから僕のよく知ってる言葉で伝えさせてほしい」

 リチャードは透明に輝く緑の目で、じっと私を見て告げた。

「I love you, Tomoko. ……この意味、わかる?」

 こくん、と私は頷いた。

「愛してる、リチャード。君なら、わかってくれるよね」

 リチャードは眩しいほど頬を綻ばせて笑った。









 ねえ、リチャード。これから私たちはどうしていこうね。

 国も人種も育ってきた環境も、何もかも違うから、問題は山積みだってことはわかってるんだ。

 だから一つずつ話しあって決めるしかないんじゃないかな。

 喧嘩して、すれ違って、仲直りして、また話しあおう。

 私は君に近付きたいし、君も近付いてくれると信じてる。

 わからないことがいっぱいだからこそ、理解し合った時はきっと何倍も嬉しいと思うんだ。

 それで春が来たら、一緒にデニスのお墓参りに行こう。

 今より上達した英語で、私はデニスに報告するよ。

 イングランドの人たちがいつも最後に付け加えるように、「Thank you」と。