夢を見ているとわかっていた。

「久しぶりだね、智子」

 目を開けたら、闇の中にデニスが立っていたから。

 小柄で痩せた体躯で、だけどいつも通りしゃんと背を伸ばして彼はいた。作りものめいているほど整った顔立ちで、涼やかな灰緑の目で私を見ていた。

「元気でやっているかな。ちゃんと勉強している?」

 夢でもいいからもう一度会いたいとずっと願っていた。しかし今目の前に立って、私は不思議なほど静かな気持ちだった。

「今日は君がイングランドに来た時のために、少し紹介をしておこうと思ってね」

 すぐに気付いた。これはデニスの最後の手紙だ。暗記できるほど繰り返し読んだから、ついに夢に出てきたのだと思った。

 デニスは少し顔を上げる。暗闇の中、無数の額縁が浮かび上がる。

 次の瞬間、デニスは額縁の中の光景の一部になっていた。

「イングランドに来たら、まずコッツウォルズに行くといい。古き良き田舎が君を迎えてくれる」

 霧雨の中にはちみつ色の壁の家々が立ち並ぶ。小川のほとりを、デニスはゆっくりと歩いていく。

「その近くに、オックスフォード。重厚な歴史のつまった石畳と聖堂、そして図書館がある」

 額縁の中をデニスは渡る。灰色の荘厳な大学街を、目を閉じながら進む。

「ロンドンに来たら、博物館や美術館を見ておこう。大英博物館には世界中から集められた展示品が、ナショナルギャラリーには美の結集である無数の絵画が収められている」

 迷宮のようなミュージアムが、額縁の中に浮かび上がっては移り変わる。

「ロンドン塔やセント・ポール大聖堂もぜひ足を運んでほしい。栄光のすぐ隣に影が見えるだろう」

 宝石博物館の隣に血ぬられた監獄があったロンドン塔、炎の中に立ち竦むセント・ポール大聖堂が見えた。

「ウェストミンスターの鐘の音も、聞いてみてくれ。君はびっくりするかもしれないね」

 澄んだ軽やかな鐘の音が、どこからか響いて来た。

「そして遺跡、ストーンヘンジ。僕がイングランドで一番好きな場所だ」

 曇り空の下、永遠の緑のじゅうたんの上に立ち続ける石群を背景に、デニスは振り返る。

「でもこれらはイングランドのほんの一部でしかない。今更のような、ありふれた観光案内をしてしまったな」

 デニスは額縁をくぐりぬけて降りてくる。

「君が見て、感じ取るものは、僕が紹介したものとはまるで違うかもしれない。君は失望するかもしれないし、意外に感じるかもしれない」

 ううん、デニス。確かに君が教えてくれたイングランドとは違ったけど、思っていたより遥かに美しい国だったよ。

「僕はロンドンが好きじゃないが、今のイングランドの中心は間違いなくロンドンだ。それも一言付け加えておく」

 イングランドの光景が絵画のように額縁に入って、私たちの周りを取り囲んでいた。

「いい旅になることを、心から祈る……」

 デニスは宙に浮かぶ無数の光景を見回して、そして私に目を戻す。

「本当はここで手紙を終えるつもりだったが、最後まで逃げていてはいけない。やはり伝えなければいけないな」

 真っ直ぐ私の方まで歩いて来て、デニスは半歩先で立ち止まる。

「この手紙が届く時には、僕はもういないと思う。僕が死んで少し落ち着いた頃に君へ送ってほしいと、家族に頼んであるから」

 手を伸ばせば届くところにデニスはいる。けれど手を伸ばした瞬間に消えてしまうことも、私はわかっている。

「二つ、君に伝えたいことがある」

 静かに、デニスは話し始める。

「一つ目。僕は去って行く人間だから、君の時間を奪いたくない……と思っていたのだが、僕の中のずるい部分が反抗する。君に忘れられたくないと思ってしまう」

 少し目を伏せて、デニスは告げる。

「だから、一度イングランドを訪れるまでは僕のことを覚えていてほしい。その後は、何もかも忘れてしまって構わない」

 そんなことはできないよ、デニス。君のことは絶対に一生忘れない。

 旅を終えても、それは変わらなかった。

「もう一つは……」

 デニスは微かに困った様子を見せた。

「君はよく、僕のことがわからないと言っていたね」

 表情の変わらないデニスには珍しく、目の中や口の端、頬、あちこちに困惑が現れた。

「わからなくて当然なんだよ。僕は君に近付くことをやめてしまったから」

 完璧なほど整った表情を崩して、情けないような目をする。

「コミュニケーションは互いに近付いてようやく成立する。片方がどんなに近付いても、もう片方が逃げては通じない。君が僕のことを理解できなかったのは、僕のせいだ。すまない」

 ため息をついて、デニスはついと目を上げる。

「でも君の考えていることは、僕に伝わっていたよ。君は一生懸命近付いてきてくれたから」

 そっと微笑んでデニスは言う。

「君が僕のことを大切に思っていてくれたことも知っている。嬉しかった」

 ううん。君が穏やかに私を見守ってくれていたことは、私も感じていたよ。

 心まではわからなくても、それだけは何となく気づいていたんだ。

「君はアクティブで、誠実で、真面目な人だった。そして僅かな反応でも感じ取る素直な心を持ってる」

 デニスは真っ直ぐに私をみつめて告げる。

「だから、僕の後に心を通じ合わせたい相手が現れたなら、どうか迷わないでほしい」

 すっと、デニスは手を差し伸べる。

「その素直な心で、想いを伝えて。君の話せる言葉でいい。君は相手がどんな言葉を話していても、聞き取ろうとするだろうし」

 私を覗き込むようにして、デニスは目を細める。

「……君が好きになる人なら、君がどんな言葉を使っても、聞き取ろうとしてくれるだろう」

 不安な顔をした私が見えているように、デニスは静かに諭す。

「大丈夫。君ならできるよ」

 デニスの輪郭がぼやける。私は自分の目をこすったけど、デニスの姿は薄くなっていく。

「日本に来てよかった。君に会えてよかった。僕は幸せだった」

 立ち竦んで、私はぐしゃぐしゃになった顔を拭う。

「ありがとう。智子」

 デニスにはやはり体温を感じなかった。

けれどそっと、頬に手が触れたような感覚がした。涙を拭うように、一瞬だけ頬の上をデニスの手が動いた。

「君の友達、デニスより」

 そうして、デニスは指先から私の中に消えて行った。